流れで煙草を取り出して火をつける。肺を満たすように深く息を吸って、それと同等に深く息を吐きだした。
それでも心の靄は晴れない。
最後の手掛かりだったのだ。彼を――静信の消息を知っていそうな人物は、あの津原の他にはいない。
津原の存在も、「屍鬼」という本が出版されて随分と経ってから掴んだものだった。
振り出しに戻ってしまった。いや、振り出しにすら立てていなかったのかもしれないと、男――敏夫は自嘲した。何度目かの溜息を吐く。
外場を焼き払ってからこっち、敏夫は魂が抜けたかのように過ごしていた。医者も辞めて、彼はただ途方に暮れていた。泡沫どころではない、これではまるで塵のようだ。
外場の人間とは、やはりあの事件を境にして接触は絶っている。集まって何をするということもないだろうし、互いの顔を見ても、あの悪夢を思い出すだけだ。
そうやって身近な人物との縁が薄れるにしたがって、孤立した、という寂しさにも似たものが、敏夫の胸を塞ぐ。寂しいのだろうか、自問しても答えは出ない。
無意識に三本目を吸おうと手を伸ばしたが、箱の中に目当てのものはない。もうここにいる用もないと、クシャリと箱を潰して、敏夫も席を立つ。
――今日は酔いたい気分だ。コンビニで安酒でも買いこもう。
「敏夫」
今は何処にいるともしれない幼馴染に呼ばれて、敏夫は飛び起きた。眉根を寄せて叱るようなまなざしを向けるのは、間違えようもない、敏夫が捜し続けた静信だ。
あまりの事態に、敏夫の思考は止まりかけた。その間にも、敏夫が起きたことを確認した静信は小言を始める。
それは日常の風景だった。今はもう失われた外場の尾崎医院――その控え室では度々あった、本当に些細な日常。
自分の格好を確認すると、敏夫は白衣を着ていた。目の前の静信は、見慣れた衣を着ている。ちょっとした用事でもあったのだろうか。
「ちゃんと聞いているのか?」
「お前、何してんだ、こんなとこで」
「……敏夫が呼んだんじゃないか」
ふっと笑う静信は、敏夫が寝ぼけているとでも思っているのだろう。敏夫自身も、自分は寝ぼけているのではないか、と疑った。希望的観測とも言えるかもしれない。
夏からの悪夢は、事件は、すべて夢だったんじゃないか、と。
「静信、兼正の家はどうなった」
「どうって……別に変わりはないと思うが」
「越してきた奴はいないのか」
「記憶にはないな」
その言葉を、いつもと変わらない表情で喋る静信を見て、敏夫は大袈裟に溜息をついた。からかわれているとでも思ったのか、静信の眉がピクリと上がる。
そうだ、夢だったんだ。屍鬼なんてものはいない、桐敷なんて一家も越しては来なかった。すべては、敏夫のただの夢だったのだ。
敏夫の様子を怪訝に思って、静信は口を開く。
「夢でも見たのか?」
「とびきりの悪夢だな」
ますます怪訝そうに眉根を寄せる静信に、敏夫は笑いながら話しだす。これを全て話せば、敏夫が静信にからかわれるだろうが、それでも構わなかった。ただ、今までの、夏からの出来事がすべて夢だったということが、途方もなく嬉しかった。
「あのな」と切り出して、目尻に薄らと溜まった涙を拭う。
――目を開いた先には、外場を出てから借りた安アパートの暗い天井しか、見えなかった。