一日目

七海が好きだ。
ストンと落ちてきた感情の内容と脈絡の無さに、五条は驚いて瞬きをする。と同時に、ペラペラと忙しなく動いていた五条の口は固まった。向かいに座る七海は急に黙り込んだ五条を訝しんだのか、視線を手元の新聞からその顔に移した。
「……どうしましたか」
「や、あの、うん……そう、用事! 用事思い出したから!」
テーブルに投げ出していたスマホを回収して、五条はいそいそと席を立つ。あからさま過ぎる態度に疑念が増したのか、七海の眉間にはシワが寄った。
五条が大股に歩けば出口なんてすぐそこだ。七海に再び声を掛けられる前に、五条は「じゃーね」とだけ言い残して待合室を脱出した。
とはいえ用事なんてその場しのぎの嘘だから、五条は高専内を当て所なく彷徨いた。任務も会合もないのは喜ばしいことだが、こんなときに限って生徒たちは出払っている。過半数が任務だから付き添いの補助監督も不在で、だだっ広い敷地を持つ高専は今、閑散としてどこか物悲しく思える。
誰か帰ってないかなと足を向けた正門で、五条は見慣れた呪力に気付いた。
「傑!」
「や、悟。ひと月ぶり」
右手を顔の横に掲げながら門を潜るのは、長期の地方行脚を終えた夏油だ。左手には色とりどりの紙袋を携えている。現在の夏油の交友関係は狭いのに、毎度、土産を巣篭もり前のクマかと疑うほど買い込んでくるのだ。彼の悪癖の一つといえる。
両手を広げて歓迎の意を表した五条は、勢いそのままに夏油に抱きついた。五条の体格にも距離感にも慣れた夏油は、肩を竦めながら抱きとめる。や否や、ベリッと音がしそうな強さで五条は引き剥がされた。そうして校舎に向かう夏油の隣に続く。
久しぶりに会った親友との近況報告は大いに盛り上がり、いくら話しても終わりが見えないほどだった。語り尽くすのを諦めた二人は、夕食を一緒にとる約束を交わす。二人ともに多忙な身の上だから叶うかどうかは五分五分だが。
夕食の約束はしたものの、話し足りないとばかりに五条は喋り続ける。応じる夏油も満更でもなさそうな顔だから、もっと話したいのはお互い様なのだろう。しかし、よく回っていた五条の口がピタリと止まった。
目の前の角を曲がってすぐに待合室がある。あとほんの僅かの距離だ。話に夢中になっていた五条は、そんな近くに戻ってくるまで気付かなかったのだ。
大量の土産を抱えた夏油が寄るところなんて、補助監督の事務室か、呪術師の待合室くらいだ。人口密度の薄い高専内で、人が多くいる可能性が高いから。待合室には依然として七海一人きりだから、目論見は外れてしまっているわけだが。
口とともに足も止まった五条を、半歩先にいる夏油が振り返る。何も知らない夏油は呆れるでも怒るでもなく、ただ、その目力で五条を急かしている。
「そ、ういえば僕用事あるんだった! また後で!」
「え、あ、うん。後でね」
夏油の見送りを背に、五条は堪らなくなって駆け出した。
待合室の七海にも届きそうな大声も、夜蛾に見つかれば拳骨と説教をもらいそうな駆け足も。いっぱいいっぱいになってしまった五条には、気遣うことも出来なかった。

賑わう大衆居酒屋の一席、五条は頼んだクリームソーダに手も付けず、テーブルに沈んでいた。時々口から漏れるのは呪詛のような独り言だ。おもむろに上げたその顔はきっと赤くなっていることだろう。
「僕さ、七海のこと好きだったみたい」
夏油の相槌はない。聞いているのかと対面の席を見遣れば、グイッと大きなジョッキを煽るところだった。地面に空いた穴に喋るつもりのない五条は眉根を寄せる。
「……何とか言えよ」
「今更気付いたんだ?」
地面に空いた穴のほうが良かったかもしれない。今更と言われるほどに周囲に駄々漏れだったという事実に、五条は再びテーブルに沈んだ。
薄情な親友は枝豆に手を伸ばしている。小山を築いていたはずの緑は、瞬く間にその口に吸い込まれていった。
「様子がおかしいって七海が言ってたけど。なに、初恋?」
「は、つこい、だと……思う」
初恋――口に出した途端に顔に火がついたように感じられて、五条は手で風を送る。中々引かない熱にクリームソーダを一口啜った。
夏油は枝豆に飽きたのか、卵焼きを切り分けている。大根おろしとともに一口で食べてから、ようやく五条に視線を向けた。ゴクンと喉が動く。
「その年で初恋とか、拗らせてるねえ」
「……拗らせてねーし」
やれやれとでも言うように笑ってから、夏油は焼き鳥に齧りつく。親が子に向けるような視線がむず痒くて、五条は手持ち無沙汰にストローを回す。
五条が口を閉ざせば、夏油も口を開かずに続きを促した。それは居心地の悪い沈黙だ。耐えかねて、五条は渋々と口を開く。
「……七海がさ、笑ったんだよ」
五条は記憶を掘り返す。直前の会話は全く覚えてない。が、五条の言葉で笑った七海のその表情は、焼き付いたように離れない。ウザ絡みの常習犯の五条に対しては、滅多に見せないような穏やかな笑顔だった。思い出すだけで、喉が渇くような頭が茹だるような気がしてくる。
焼き鳥を各種一本ずつ食べた夏油は、盛り合わせの器を五条の近くに追いやった。夏油の周りには空の皿が増えていく。
「仕方ないなって感じで、かわいく……あーもー」
自分の発言の恥ずかしさに居た堪れなくなって、五条は声を上げて頭を抱える。五条の小声の呻き声は、周囲の喧騒に紛れて消えていった。
夏油の相槌はやはり無く、五条は指の隙間から向かいの親友を窺う。ちょうど、引き寄せた冷奴に薬味を盛っているところだった。親身になるつもりはなさそうだ。
「話聞いてる?」
「悟ってウブなんだね」
「そんなこと言ってねーだろ。食べてないでちゃんと聞けよぉ」
五条の不満もどこ吹く風で、夏油はメニューを開いた。
「君の奢りだろ? 限界まで食べるさ」
メニュー片手に、夏油はビールを飲み干した。どうやらアルコールも追加するようだ。
「それに親友のノロケなんて、食べながらでもなきゃ聞いてられないよ」
「ノロケとか、そんな……そんなんじゃねーから……」
初恋という単語でさえあんなに恥ずかしかったのに、ノロケのわけがない。なんていう主張を出来るほどの冷静さは残っていなくて、五条は、三度テーブルに沈んだ。