開き直った夏油が、五条の「ノロケ」を親身に聞いてくれるはずもない。結果、五条は心行くまで飲み食いした夏油に奢るだけで、その場はお開きとなった。最後のほうは夏油もひどく酔っていたせいで、グダグダだったが。
五条がしたかったのはノロケではない。断じてない。けれどそれが恋バナだとか恋愛相談だとか、十年来の親友に対してするには小っ恥ずかしいものだったのは確かだ。もしかしたら相談相手を間違えたのかもしれない。
五条は七海への好意を自覚した。しかしそこからどうしたいのか、五条は考えが纏まっていない。そもそも、どうなりたいのかが定まっていないから、次にするべき行動が思い付かないのだ。
たとえば誰かを好きだと自覚して、恋人になりたければ告白するか、それ以前の段階なら好かれるようにアプローチするか、だろう。しかしそれは両想いになる可能性がある場合だけではないか。可能性がないとわかり切っている場合は、沈黙こそ金なのでは。閃きに五条はウンウンと頷く。現状維持、これに勝るものはない。
「五条さん」
心臓が飛び出すかと思った。無意識に胸を擦りそうになった手を下ろして、不自然にならない程度にゆっくりと五条は振り返る。
「おはよ、朝から任務? 大変だねえ」
「おはようございます。それはアナタも同じでしょう」
平静を装って、五条は今にも過剰に動き出しそうな心臓を宥めた。片想いの相手のことで悩んでいたら当人と出会すなんて、マンガのような偶然だ。自分に降りかかると全く嬉しくないものだが。
七海はお喋りの間もずっとじっと、五条の顔を見つめる。アイマスクで表情の半分ほどは読み取れないだろうに、随分と熱視線を向けられている。いっそその熱で、アイマスクの下を見透かされそうなほどだった。
「なになに、どうしたの? もしかして見惚れちゃった?」
「今更見惚れませんよ。昨日、いつもと様子が違ったので気になったんですが」
「何もなさそうで良かったです」と、七海は安心したと言うように穏やかに微笑む。茶化して混ぜっ返そうとした五条の言葉は、そんな表情を見せられて上滑りしてしまった。
ベタにキュンとした心を誤魔化すために、また五条は口を開く。
「な、なみが優しいとか珍しーい」
「……心配する必要はなかったようですね」
七海は呆れたように溜息を吐く。不機嫌までいかずとも機嫌は下がり気味で、いつもの七海に戻ったことにホッとする。眉間のシワ常備がいつもの様子というのも悲しい話だが。
「心配なんていらないに決まってんでしょ。僕、最強だよ?」
七海の眉間のシワとともに五条も調子を取り戻して、その口は軽快に回る。ついでに顔の横でピースをしてやれば、「軽薄」と評されがちないつもの五条に元通りだ。
そんな五条に、七海は苦笑いとともに溜息を吐く。七海の目はいつもの呆れではなく、頑是ない子どもを見るような優しさが滲んでいる気がした。
「最強でも心配しますよ。アナタは大切な人ですから」
「は」
真意を問う前に七海の指が頬に触れて、五条の肩は大袈裟に跳ねる。その指先は頬から耳に滑っていき、アイマスクを無遠慮に下げた。上がっていた前髪が落ちる。目の際を撫でる七海の指に髪が当たる乾いた音が、やけに大きく聞こえた。
「薄いですが、クマがあります。ちゃんと寝てるんですか?」
「な、い……や、ちゃんと寝てる寝てる」
五条のしどろもどろな答えに、「どっちですか」と七海は苦笑する。その余裕は何なんだ。
奪い返したアイマスクを元に戻し、五条は七海から一歩分の距離を取る。心做しか広めの一歩になってしまったが、動揺しているのだから仕方ない。決してビビっているわけではないし、首が熱いのも背筋がぞわぞわとするのも気のせいだ。あるいは七海のせいだろうか。
縋るようにアイマスクを手で押さえたまま、じりじりと五条は七海の動向を窺う。
「だーから、心配なんていらないって言ってんだろ」
しかし高専在学中から付き合いのある後輩には、それが強がりなんてことは見抜かれているらしい。余裕ぶった笑みで「顔が赤いですよ」なんて頬を撫でられたら、ますます顔が赤くなってしまう。
「熱でもあるんじゃないですか」
ス、と首筋を七海の指が掠めて、とうとう五条は爆発した。
「なっなな、ななみ」
「はい」
「の、バーーーカ!!」
語彙もへったくれもない捨て台詞を吐いて、五条は逃げ出した。
逃げ出した五条が向かったのは、夏油の自宅だ。
「七海のアレ、何なんだよ!?」
待つのも惜しいとばかりに、ドアノブが動くと同時の第一声はそれだった。どうやら寝起きの夏油はガリガリと頭を掻きながら事態を把握し、それから深く嘆息する。
「私は今日、休日なんだよ」
「だから来たんだよ」
「当然だろ」と言うように返すと、夏油はさらに深く長い嘆息をした。俯いた夏油のつむじが、五条の目の前に晒される。
「君も知っての通り、私はつい昨日まで長期任務で地方出張だったんだ」
お小言の開始に内心で舌を出すも、夏油は気付く様子がない。あるいは無視しているのだろうか。
「からの休日、存分に堪能して惰眠を貪ってたんだよ、今の今まで」
「じゃ、もう満足しただろ」
「……してない、ショートスリーパーの悟と一緒にしないでくれ」
呻く夏油に、五条は「大変だなあ」と丸きり他人事の感想が浮かぶ。夏油も今更、共感を求めているわけではない。
「というか、休日の最後をノロケで締め括りたくないんだよ」
言うやいなや、ドアが不憫に思えるほど勢いよく閉められる。「だからノロケじゃないって」という五条の反論は、一文字も音にならなかった。