帳を下ろして圧を掛けて、そうしてよたよたと出てきた呪霊は、確かにキューピッドだった。見た目が、ではなく呪いとして。
七海の「思ったことを口に出してしまう」というのは、呪いの影響で間違いない。しかしあくまで副作用みたいなもので、呪いの本体は「呪霊の攻撃を受けてから最初に見た人を好きになる」というものだ。
物理的な損傷を一切与えられないという制約を課すことで、精神の操作を可能にしている、はずだったのだろう。しかし肝心の呪霊が弱すぎて、きっと、七海の気持ちを操ることは出来なかった。つまりはそういう顛末だ。
そういう顛末だと気付いた途端に、周囲の気温が三度は上がった気がした。残暑厳しい季節だからか。などという白々しい誤魔化しも、自分が相手では効果は薄い。
「かわいい」「美しい」という七海の言葉は紛れもない本音で。その本音は呪いの影響を受けていないはずで。事実と憶測が入り混じっているのに、並べられれば五条の期待は否応なく膨らんでしまう。何せ五条は七海が好きなので。
埃を払うように呪霊を祓い、依然として熱の下がらない項に手を当てる。こんなにも落ち着かない気持ちで祓除をしたのは初めてだ。生温くなった手のひらで既に隠れている目元を隠し、五条は儘ならない気持ちに呻く。
まだ確定したわけではない。いや勝率は九割を超えただろう。脳内で激しく討論する天使と悪魔を追い払って、五条は一先ず帰路についた。
◆ ◆ ◆
「あとで、また家入さんに診てもらってきます」
顔を見なくてもわかるくらい落ち込んだ声で、七海が宣言する。確かにそれ以外にはあてがない。けれど解呪に繋がると思えないから、五条の同意の言葉はどうしても尻すぼみになってしまう。
七海の目の奥、残穢は相変わらず渦を巻いている。何なら昨日よりも活発に揺れているような気がして、五条は予想が外れたことに首を捻っていた。これでは七海の言う通りだ。日にち薬を待つだけでなく、解呪方法を探すべきだろうか。
そもそも呪いの大元に気付かないなんて、七海は鈍くていけない。と、内心で八つ当たりしたとき、五条は閃いた。天啓を得た。雷に打たれたようだった。
解呪条件は自覚だ。呪いによって齎された恋に気付くまで、この呪いはきっと解けないのだろう。ただのカンでしかないけれど、一度思いつけばそうとしか思えなくて、五条は押し黙る。
何度も何度も促しても、七海はその本音を自覚する様子はなかった。それを、よりにもよって五条が指摘してもいいものだろうか。散々にデリカシーがないと言われる五条でも悩んでしまう。
なのにこんなときばかり、脳内の天使と悪魔は口を揃えて背中を押す。いっそ蹴飛ばしてくる。喧しく喚く自分の本音どもに観念して、五条は重たい口を開いた。
「七海さあ、ホントに無い? 言い忘れたこととか」
「ありません」
けんもほろろな回答だ。
「即答なんて怪しーね。ホントのホントに?」
「……ありません」
食い下がってみてもつれなくて、やんわりと自覚を促すのはやはり難しいらしい。思わず零れた「頑固者」という言葉に、七海は器用に片眉を上げる。こういうときだけ素直で、そういうところがまたかわいい。かわいいのだから仕方ない。ふぅと一つ息を吐いて、五条は居住まいを正した。
「実は、七海クンには開示してない情報があります」
すぐさま責められるかと覚悟していたが、七海は案外と落ち着いているようだ。落ち着いて、大人しく、五条の言葉の続きを待っている。呪いに関して、意味もなく不利益を招くようなことをしないと、五条を信頼しているのだろう。その信頼も今日限りかもしれないが。
「思ったこと全て言葉にする呪いだと思ってるかもしれないけど、実は違う」
七海の目が揺れる。
「嘘を、言ったんですか」
「僕は『思ったことを言うのは呪いのせいだけど、思ってることしか言えない』って言ったんだよ。これはホント」
しかし、それは副作用でしかない。呪いによって増幅された気持ちが、抑えきれなくて溢れているに過ぎない。
「オマエが掛かったのは『最初に見た人を好きになる』呪いだ」
七海の顔色を窺うのも出来なくて、五条は視線を下げる。怖気づいているなんて認めたくなかった。意識して声を張る。
「とはいっても、オマエに呪いを掛けた呪霊は弱っちくてね。それ程の力はない。況してや、オマエは一級を冠する呪術師だから」
息を吐く、吸う。そんなことにやたらと時間を掛けて、視線が泳ぐのも自覚して、もう一度息を吸った。今度は短く浅く。
「たとえば、元から好意を寄せる相手とか、しかもその片思いで悩んでるとか。いろんな事情が重なって、やっと影響が出るんだよ」
「それでも微々たるものだけどね」と言い訳のように添えてから、五条は顔を上げた。たったそれだけのことで緊張した。
五条が遠回しに遠回しに気付かせようとしたことに、七海も流石に気付いたらしい。ほぼ言葉にしていたような気もするが。
「ね、七海。ホントに、まだ言ってないことは無い?」
そうしてダメ押しとばかりに再び尋ねる。七海の顎に力が込められた。奥歯が砕けるかもしれないと、逸れた心配が五条の頭に浮かぶ。
「最悪だ。アナタ、全部わかってたんですか、最初から。なのに……笑ってたんですか、私のこと」
「笑ってた、とかじゃないよ。ただ嬉しかったから」
そう思われてしまうことが悲しいのか寂しいのか、あるいは腹が立つのか、自分のことなのに判断つかずに五条は苦笑いを浮かべる。ウザ絡みをし過ぎたせいだから、身から出た錆ともいえた。
「絶対叶わないって思ってたのに、あんな目するから……期待しちゃったんだ。……僕、オマエが好きだから」
「わぁ言っちゃった」なんて白々しい言葉も、あながち嘘ではない。五条だとて勢いで言ってしまっただけで、フラれる心の準備なんて少しもできていないのだ。七海の本音は察しているが、それでも彼なら、理性を優先した返事を寄越すかもしれない。七海の応えを待つ間、トキメキ以外の理由で心臓は忙しなく動いていた。
「それ……は、私のとは違う。付き合いが長くて距離が近くなったから、勘違いしただけでしょう」
七海の返事は斜め上だった。拒まれるか、万が一の可能性で受け容れられるか、どちらでもないことを言われて五条は驚いた。そうして腹が立った。今度は、三つのうちのどれかわからない、なんてことはない。五条にも馴染み深い、明確な苛立ちだった。
言葉にしたのに信じてもらえないなら、もうこれ以上は行動で示すしかないだろう。八つ当たり気味に思考を方向転換させた五条は、未だ戸惑いの晴れない七海に手を伸ばした。
オリーブグリーンの中に映る五条の姿が、段々と大きくなっていく。ちゅと小さく音を立てて離れても、結局、七海が拒むことはなかった。
「オマエのこと、こういう意味で好きなんだって、ちゃんとわかってんだよ」
ゆらゆらと揺れる緑の目と赤い耳は、もう返事をしているようなものだ。五条は満面の笑みを自覚する。七海は口を開閉させるだけだ。意地を張っているのか、衝撃が大き過ぎたのか、五条には判断できないが。
「もうさー、さっさと吐いて楽になっちゃえよ」
理性的であろうとする仮面が剥がれたあと、七海のかわいらしさは一層と増す。そう感じてしまうのは、自分の頭が浮かれているからだろうと五条は理解していた。つまり、これが恋というものなのだ。