ベッドの上、朝起きて一番に見る至近距離の五条にも耐性ができた、などということはない。が、取り繕えるようになった七海は、「美しい」の一言の代わりに「眩しい」とだけ呟いた。聞き逃さなかった五条は「僕の顔が?」とすかさず茶化してきたが。
「さすがに解けると思ったんだけどなあ」
「五条さんでも外すんですね」
「可愛くないこと言わないでくれるぅ……あ、まだ言ってない本音あるとか」
「昨日全部言いましたよ。あれ以上はないです」
ばっさり切ると、五条は頬を膨らませて不服を表明する。あんまり見ているとかわいいと本音が漏れてしまいそうで、七海はそっと目を逸らした。
起き上がって、けれど解呪できていないという事実が伸し掛かり、七海はベッドの上から立ち上がれなかった。隣の五条は悠々としたもので、大きく伸びをしている。これも今までの経験の差だろうか。
「……あとで、また家入さんに診てもらってきます」
正確に言えば様子見の猶予は今日一日分はあるわけだが、どうせ治らないだろうと七海は諦めの境地に至っている。ウンウン唸っている五条は、まだ治す手立てがないか考えているのかもしれないが。
「ま、そーだね。硝子のとこ行って……」
尻すぼみな言葉とともに黙り込んだ五条は、何事か悩んでいるようだ。即断即決を地で行く五条が、たかが後輩一人のことでこんなに悩むとは意外だ。七海は五条の新たな一面を知れた気がした。
口元を隠すようにして視線も落として考え込んでいた五条が、唐突に顔を上げる。隔てるもののないその青い目は、らしくなく言い倦ねるように泳いでいた。彷徨わせた視線を七海の口元に固定して、五条は渋々と口を開く。
「七海さあ、ホントに無い? 言い忘れたこととか」
「ありません」
またこのやり取りかと呆れる前に、七海の口が返事をしていた。五条はその表情で、納得していないことを訴えている。
「即答なんて怪しーね。ホントのホントに?」
「……ありません」
疑われたからというわけではないが、ほんの少し考えてから、七海は再び同じ返事をする。七海には心当たりがないのだから、判で押したような答えになるのも仕方ないことだ。五条は唇を突き出して不満そうだが。
「……頑固者」
ふうと五条は息を吐く。思わず出た溜息というよりも、仕切り直すための一呼吸のようだった。五条が居住まいを正すとき、大概は碌でもないことを考えているか言い出すかの二択だ。つられて七海の背筋も伸びる。
「実は、七海くんには開示してない情報があります」
予想よりも碌でもない悪い知らせが、七海の動揺を誘う。七海は顔に出ないように、ついでに口にも出ないように注意して、心を落ち着かせた。しかし五条は、そんな七海の苦労を無に帰すような言葉を続ける。
「思ったこと全て言葉にする呪いだと思ってるかもしれないけど、実は違う」
「は……嘘を、言ったんですか」
こと呪術に関して、七海は五条を信頼していた。が、それが揺らぐ。
「僕は『思ったことを言うのは呪いのせいだけど、思ってることしか言えない』って言ったんだよ。これはホント」
七海としては、どちらも同じ結果を招くとしか思えない。何が違うというのだろうか。五条を見つめて、言外に続きを促す。
五条は「あくまで副次的なものだけどね」と、少し困ったように笑った。そうして深く息を吸って、観念したように口を開く。
「オマエが掛かったのは『最初に見た人を好きになる』呪いだ」
七海の脳裏に、呪いに掛かってからの日々が映し出された。走馬灯のようなそれは、しかし合わせても三日はないから瞬きの間に終わる。そのどの記憶の中でも七海は五条に好意を寄せていた、ように思える。それも全て呪いに依るところだったと言いたいのだろうか。
「とはいっても、オマエに呪いを掛けた呪霊は雑魚もいいとこで、それ程の力はない。況してや、オマエは一級を冠する術師だから」
そんな状況ではないはずなのに、五条の言葉がくすぐったく感じられた。これもまた、呪いのせいかもしれないが。
五条の呼吸が不自然に揺れ、視線は布団に寄ったシワを数えるようにゆらゆらと彷徨っている。これ以上、何を躊躇することがあるのだろうか。「たとえば」と五条が小さく呟く。
「元から好意を寄せる相手とか、しかもその片思いで悩んでるとか。いろんな事情が重なって、やっと影響が出るんだよ」
「それでも微々たるものだけどね」と付け加えて、五条は顔を上げた。値踏みするように、あるいは七海の心を見透かすように、五条は目を細める。
「ね、七海。ホントに、まだ言ってないことは無い?」
七海は奥歯を噛み締める。隠しきれなかった苛立ちが隙間から漏れて、まるで獣の唸り声のようだった。
「最悪だ。アナタ、全部わかってたんですか、最初から。なのに……笑ってたんですか、私のこと」
「笑ってた、とかじゃないよ。ただ嬉しかったから」
何が嬉しかったのか、七海には見当もつかない。訝しむ七海の顔に思うところがあったのか、五条の笑顔はどこか寂しげだ。
「絶対叶わないって思ってたのに、あんな目するから……期待しちゃったんだ」
まるで告白のようだと思って、即座に、そんなはずないと七海は否定する。七海から五条に好意が向くことはあっても、逆は有り得ない。あるとすれば五条の勘違いだ。
「……僕、オマエが好きだから」
しかし五条の言葉に、七海の予想は打ち砕かれた。砕かれた衝撃により、七海の思考は固まる。「わぁ言っちゃった」なんて白々しくはしゃいでいる五条の態度に、かわいいと思ってしまったのはもう癖のようなものだ。
「それ……は、私のとは違う。付き合いが長くて距離が近くなったから、勘違いしただけでしょう」
しどろもどろになりながらも伝えれば、途端に、五条は唇を突き出して不満を示す。そんなあざとく見える仕草もかわいい。すぐさま脱線しようとする自身の思考を、七海はどうにか脳内に抑え込んだ。と、賑やかな心の声に意識が向いて、伸びてくる五条の手への反応が遅れる。
スと近付く手は、七海の顎から頬、耳の後ろを擽って後頭部で止まる。顔を固定されるまでの流れは淀みなく敵意もなく、だから七海は抵抗するきっかけを掴めずに、されるがままだった。そうして遅れて近付いてくる五条の顔に、「あ」と思う間もなく唇を奪われた。離れていく五条の顔は、やけにゆっくりと動いているように見える。
「オマエのこと、こういう意味で好きなんだって、ちゃんとわかってんだよ」
一秒にも満たない接触だったが、五条にキスをされた。勘違いだとはもう言えなさそうだ。
五条の不満げな声は七海の耳も頭も素通りする。混乱の只中にある七海に対して、五条はにんまりと、心底楽しそうな笑顔を浮かべている。いつもの調子が戻ってきた、ともいえるかもしれない。
「もうさー、さっさと吐いて楽になっちゃえよ」
イタズラ好きの子供のようなと言えば聞こえは良いが、実際は、猫が獲物を甚振るような笑い方だ。なのにそれさえ可愛く見えてしまって、七海はどうしようもない自分の感情に白旗を振った。これが恋というものか。