その日の放課後、七海は数学教師の五条を探していた。授業だけでは理解できなかったことを質問するために。
探しているとは言っても、五条の居場所は見当がつく。きっと数学準備室だろう。彼はそこに、塒という表現が過言ではないくらいに入り浸って、授業が終わればいそいそと帰っていく。まるで巣穴に戻る動物のようだ。
高校も二年に進級して五条が教科担当になってから、七海は数学が楽しくて仕方ない。五条の教え方が上手いとか新しいことを知るのが楽しいとか、理由は色々とある。けれどそれだけではない気持ちもあって、七海は名前の付けられないそれから目を逸らしている。理解してはいけないような気がしたので。
そうして到着した準備室の引き戸は僅かに開いていた。意外と几帳面なところのある五条は、出入りしたあとの扉はピッチリと閉める。もしかして在室していないのかと、七海はその隙間から室内の様子を窺った。
傾き始めた日差しを、人目を引く白髪がキラキラと弾いている。そんな人、七海は五条以外に見たことがない。扉に寄せていた顔を戻して、ノックをしようと右手を上げたとき、室内の五条がふと顔を上げた。
左手薬指を摘むように二本の指を添える。五条はそこに指輪をしていた。それを捻るように動かしながらスと指先から抜いて、目の前に掲げる。七海は一連の動作から目を離せなかった。呼吸も押し殺して、物音を立てないようにじっと見入っていた。何故だか、五条に気付かれてはいけないと思ったのだ。
五条は指輪の輝きを楽しむようにクルクルと回して、それから、顔を近寄せた。正確にはその口元に。
触れるか触れないか――まで近付けたその唇が、実際に触ったのか。キスをしたのか。どんな表情をしていたのか。七海には何もわからない。なのに、自分が失恋したことだけはわかった。恋の自覚と同時だった。
顔は見えなくとも指先だけで、「その指輪をどれほど大切に思っているか」が伝わった。その大切はきっと、指輪を贈ってきた相手に向けられるものだ。生徒の一人でしかない七海が、太刀打ちできるものではない。
グワンと頭が揺さぶられるような感覚とともに、目頭にじわりと熱が込み上げる。泣きそうだ。奥歯を噛み締めて耐えたら、喉の奥から空気が潰れるような音が漏れた。堪らずに七海は駆け出した。教室はまだ人がいるだろうし、ここから遠い。人目のない、一人になれるところを目指して、七海は足を動かした。
質問に行くと、五条と約束はしていない。だから大丈夫だ。すっぽかして叱られることも、心配させることもないだろう。そこまで考えて、しかし五条は気に留めないだろうと思い至って、七海は腕で顔を拭った。
◆ ◆ ◆
懐かしい記憶だ。
七海は「同窓会のお知らせ」と印刷されたハガキを撫でる。思い出したのは多分これのせいだろう。
高校生活に思い入れの少ない七海は、普段なら欠席に丸をして即投函している。なのにそれができないのは、妙に感傷的な気分になっているのと、五条とまた会える可能性を感じてしまったからだ。
同窓会と題されているが実態は同期会で、七海の所属した学年のみを集めての開催だ。日時は成人式のあとだから、きっと大々的に開かれる。生徒はもとより教師も招待されるのではないか。その可能性がチラついて、七海は思い切れずにいる。
七海が今の人生の前、俗にいう「前世」を思い出したのはつい最近だ。とはいえ一年以上は前の話だが。
大学の入学式、到着した順に詰めて座った隣に、灰原がいたのだ。灰原も七海自身も、ぱっくりと大口を開けて驚いた。驚いているうちに入学式は始まって終わった。ばらばらと自由解散する中、根が生えたように座ったままの七海の腕を、灰原は力一杯に掴んだ。骨の軋みそうな力加減だった。
「七海、久しぶり!」
顔全部で笑った灰原の眦には、ほんの僅かに涙が滲んでいた。まさに感動の再会という絵面だ。七海は目頭に力を込めて泣くのを堪えた。
学部が同じ二人は講義も被りやすく、高専の頃ほどではないが隣にいることが多い。まるで前をなぞっているようだと思うたび、脳裏には五条の姿が過る。しかも思い浮かぶのは前の姿なのだから、自分の未練がましさに呆れるほかない。
前世、七海と五条は恋人だった。高専の頃の自分に伝えても信じないだろうし、振り返ってみても「どうしてそうなった」と頭を抱えてしまうような経緯だったが、確かにお互いにとって特別な相手だった。そうして七海は今でも五条が好きだった。
前の気持ちに引きずられているわけではない、とは断言できない。むしろ今の人生で五条と関わりがあったのは高校二年の一年間だけ、しかも七海の一方的な初恋と失恋で終わったのだから、引きずっていると考えるほうが普通だろう。けれど、そんな普通だとか何だとかも無視して、「五条に恋をしている」というのが七海にとっての真実だ。
前世を思い出してすぐ、七海は五条に会いたくなった。せめて声を聞きたかった。当然のことだ。けれど高校時代の担任の連絡先なんて持っていない。誰かに尋ねるというのも、理由を訊かれたらと考えて出来ずに、七海は悶々としていた。そんなときに降って湧いた同窓会の案内だ。
返信の期日を確認した七海は、そっとハガキを裏返してテーブルに置いた。
「七海、何か悩んでる?」
朝一番の講義の終わり、自然と隣に寄ってきた灰原に声を掛けられて、七海は口元を手で隠した。
「……そんなに顔に出てますか」
「凄腕スナイパーみたいになってるよ」
揶揄うつもりもなさそうな灰原の笑顔に、七海は深く溜息を吐いた。口を隠していた手で眉間を揉んでも、刻まれたようなシワはきっと解れない。そういえば五条は険しい顔をした七海を揶揄いつつも、その気持ちを解そうとあれやこれやと話し掛けてきた。折に触れて蘇る五条との思い出に、七海はさらに深い溜息を零す。
「もしかして五条さんのこと?」
「は」
ズバリと言い当てられて言葉が続かなかった。そこまで顔に出ていたのかという驚愕と羞恥で、七海は首に熱が溜まるのを自覚する。しかしこんなに暑いのは空調のせいもあるだろう。
隣を歩く灰原の顔には「興味津々です」と書いてある。これは話さなければ解放されないだろうと、七海は図書館に決めていた目的地をラウンジへと変えた。
「……同窓会の案内が来て」
「そういえば、うちの高校からも来てたかも」
昼前のラウンジは比較的空いている。四人掛けの丸テーブルの対角線にそれぞれ座り、ささやかな意思表示として、七海は教材一式を取り出した。対する灰原はスマホも出さずに、七海の話に聞き入る姿勢を示している。
「成人式の後だから、きっと大規模にやるでしょう。そうしたら五条、先生も、呼ばれるかもしれない」
「え、じゃあ行きなよ」
「それは……」
七海は言い淀む。うじうじとした悩みを灰原に包み隠さず話すのは、流石に気恥ずかしい。灰原相手では、誤魔化しは通用しないので。
変わらずじっと見詰めてくる視線に根負けして、七海は重たい口を開く。
「あの人が覚えてるかわからない、し……拒絶されるかもしれない」
「教師と生徒だからって?」
「……まあ」
「でも元生徒だし、七海は成人してるし……大丈夫じゃないかな」
灰原の言うことは一理ある。五条に受け容れるつもりがあるなら、元生徒だとか年の差だとか、そんなことが障害になるはずもない。しかし五条は左手薬指に指輪をしていた。これは七海が言い出せなかったことだから、灰原が大丈夫と予想するのももっともな話だ。
「同窓会は行ってみたらどうかな、五条さんに会えるかどうかは気にしないで。きっと美味しいご飯が食べられるよ」
「まあ……そうですね」
五条も同窓会に招待されると、そうして参加すると、まだ決まったわけではない。自分の悩みは杞憂に終わるかもしれないと、七海は思い直した。