五条は目立つ人だ。その容姿は言わずもがな、飄々として不真面目にも感じる気安さは、話し掛けやすい先生として生徒から好かれている。七海が一年の時点で、接点のない彼の名前も見た目も好物までも知っているほどだった。そこらの有名人よりも余程有名だっただろう。
そんな個人情報が回覧板のような気軽さで出回っていた五条だが、指輪に関しては何も話さなかった。誰からもらったのか、いつからつけているのか。はたまた彼女がいるのかという問いにも、答えることはなかった。
そんな状態だから、五条の指輪は虫避けのブラフだと言われていた。五条を狙っている女性教師などは、その説を本気で信じていただろう。一年のとき、興味のなかった七海はそれを聞いても、「へぇ」だか「ふぅん」だかの反応しか返さなかったけれど。
しかし二年のあの日から、七海もまた、指輪の出自を気にする一人になった。同じ日に失恋を自覚していても、気になって仕方なかったのだ。
五条が指輪にキスしていたことは誰にも話していない。七海一人の秘密にしたかった、なんて理由ではない。もし誰かに話してしまえば、芋づる式に、七海の気持ちまで知られてしまいそうだと思ったからだ。
七海はこの気持ちを隠し通すと決めていた。連続で教科担当が同じになることは滅多にないから、五条が数学を担当するのもこの一年限りだ。そうなれば教科担当から学級担任が選ばれるこの高校では、彼との接点はもうないだろう。だから何もかも、キスするところを見たことも、自分の気持ちも、口にしないと決めたのだ。
そう、決めていたはずなのに。
「……先生のその指輪、どうしたんですか」
「えーもしかして恋バナ!?」
はしゃぐ五条は握り拳にした両手を口元に添えて、お手本のようなあざといポーズを取る。揶揄う気満々なその態度に、七海は気の迷いを猛省した。対する五条はノリノリで、七海の言葉を忘れてもらうのは無理だろう。七海は出せる限りの低音で「違います」とだけ否定する。
「というか、僕ずっと指輪してたけどね」
「まあ……何となく気になったので」
「ふぅん?」
「ま、君もお年頃だしね」と謎の納得をした五条は、指輪に視線を落とした。伏せられた睫毛が光を弾く。
その顔は、慈しみと哀しみに満ちているようだった。けして、大好きな人を思い浮かべて胸を高鳴らせているだとか、そんな明るい表情ではない。もう会えない誰かを思い浮かべているような表情だ。キスをしていたあのときも、こんな顔をしていたのだろうか。
「これはね、大切なものなんだ」
「たいせつ……」
「そう。僕にとっては、だけど」
五条はガラス細工に触るような慎重さで、指輪をそっと撫でる。その指先を見て、七海は何故だか背中が粟立つようだった。
「すごく大切なものだよ」
その五条の言葉が、七海の頭に焼き付いて離れない。
◆ ◆ ◆
最近は高校の頃ばかり思い出す。
成人式の後には同窓会が控えているから、きっと頭が勝手に記憶を掘り起こしているのだろう。まるで走馬灯だ。いくら過去から対策を学んだとしても、現実の五条と相対すれば全て水の泡になるだろうに。無駄な足掻きともいえる。
なんて思っているうちに、同窓会の当日は訪れた。
七海にとっては、成人式はオマケだ。ぞろぞろと人の波に流されて着席して、市長だか区長だかの話を聞き流して、他のこまごました余興にも無関心でいたら終わっていた。あっという間だ。七海としてはここからが本番だが。
緊張か何なのか、グルグルと気持ちが渦巻いてしまって、七海はいっそ全て杞憂で終わってくれないかと思い始めた。そんな葛藤をしながら、人混みに流されつつ時には逆らいつつ会場に向かったら、こちらもあっという間に到着してしまった。まだ心の準備ができていないと、心臓は今更になって慌て始めている。
煩い心臓を宥めながら、七海は意識してゆっくりと会場に入る。豪華な内装も浮かれた雰囲気にも、七海は目もくれない。顔と名前の一致しない何人かに会釈を返してから、早々に壁際に退散した。交友関係を広く維持するのは得意でないと自覚済みだ。そもそも、七海の今と高校時代は中々結びつかないだろう。
前世を思い出してからというもの、どうにも落ち着かない七海は体を鍛え直していた。もちろん一級呪術師だった頃までとはいかないが、今の七海は伸び切った身長に見合う筋肉がついている。五条に散々に言われた「モヤシがインテリヤクザになってゴリラに育った」の、ちょうどインテリヤクザの手前あたりというところだ。
いっそ懐かしいフィンチ型のサングラスでも掛けてやろうかと思った。目印としては最適でも、悪目立ちするのも確定だから諦めたが。
と、入口のほうから控えめな歓声が広がった。
「あ、五条先生来たんだ」
「ホントだ。頭飛び出てる」
グラス片手に談笑していた女性たちは、それきり、また雑談に花を咲かせ始める。
七海は「興味もありませんが」という態度を取り繕うのに苦心した。ゆっくりと、何かあったのかと確認するような素振りで顔を上げて、入口を見遣る。人だかりの奥に目の覚めるような白髪が見えた。
ハと小さく息を吐き、我に返って、七海は口元を手で覆った。呼び掛けてしまいそうだった。前世のように。手の下で口を引き結んで呑み込んで、それから細く溜息を吐く。対策なんて、やはり無駄な足掻きだったのだ。依然として七海の心の準備は出来ていなくて、足は根が生えたように動かない。
五条の周りの人だかりは減る様子がなく、むしろ彼の進む方向に移動していく。その輪の中には五条が受け持っていない生徒もいる気がする。相変わらずなのは、顔の良さだけではないらしい。
あの包囲網を蹴散らす度胸はないと自分に言い訳して、七海は再び壁の花に戻った。元教え子に囲まれる五条は嬉しそうで、教職が天職ではないまでも、やはり適性はあるのだなと感心する。その嬉しげな笑顔を引き出しているのが自分でないという事実からは、目を逸らしているが。
五条は覚えていないかもしれない。元教え子に言い寄られても迷惑だろう。あの人の輪に突っ込んでいくのは難しい。言い訳ばかりだなと、七海は自嘲する。いくつもの言い訳を重ね連ねても、結局は「拒絶されるのが怖い」に行き着くだけなのだ。そのくせ、独占欲はいくらでも湧いてくる。制御の儘ならない感情に七海は溜息を吐いた。
予想よりも重苦しい溜息が出て、七海は顎に手を添えて小さく咳払いをした。前世ならば、こんな辛気臭い態度でいたらすかさず五条が揶揄いに来ていたのに。何とも未練がましい思考に、七海の口角は苦く歪む。
不意に視線を感じて顔を前に向けると、黒山の人だかりの隙間から、五条のそれと交わる。すぐさま逸らされた彼の視線が、意図したものかはわからない。けれどその偶然でしかない一瞬で、七海の心臓は一際大きく鳴った。離れたところからでも幸せそうな顔が見られればなんて、そんなお行儀の良いことは到底思えそうにない。
話し掛ける勇気は未だに足りない。しかし手放す勇気は湧く気配もなくて、七海は観念した。諦めることを諦めたのだ。