お行儀の良いノックのあとに入ってきた七海は、室内の状態を見るや、眉間のシワをグッと深くした。その視線の先、雪崩の起きそうなデスクの上を見て、五条はそっと視線をそらす。
言い訳をするならば、二人がいるのは五条の執務室だ。デスクにいくら山脈が連なろうと、困るのは五条本人と――あとは伊地知くらいだ。だからこその反応かもしれないが。
誰にするともない言い訳のネタも尽きて、五条はそこでようやく、七海の顔を見上げた。こういうときは話を変えるに限る。
「で、何か用?」
「伊地知くんから確認の必要な書類を預かってきました」
渡された書類たちは、伊地知の有能さのお陰で既知のものばかりだ。それらが順調だとか停滞しているだとか、面白くもない紙束を見終えてデスクに積む。否、積もうとした。しかしどこもかしこもみっちり隙間なく、ちょっとつつけばジェンガの最期になりそうで、五条はすっぱりと諦めた。諦めざるを得なかった。掲げた腕を下げて手持ち無沙汰に書類をいじる。
そんな五条の様子を見て、七海は溜息を一つ。
「片付けたらどうですか」
その通りだ。五条とて理解している。しかし、「しなければならないと理解していること」と「実際に行動に移すかということ」は、別の話だ。正直に言えば面倒臭すぎてやる気が起きないだけだが。
そんな五条の態度に何を考えたのか、七海が怒気をまとう。そうして先程よりも幾分か低い声を出す。その凄味は到底カタギと思えない。
「……まさか、提出し忘れた書類は埋まってませんよね」
「いやそれはないと思う。たぶん」
「たぶん……」
予想外に進んだ七海の言葉に、五条の口からは余計な一言まで滑り落ちた。呆れた七海の呟きに、五条は弁明を重ねる。
「や、だってそれ、実家が送ってきたお見合い写真、というか釣書だし」
「……は?」
「あ、知らない? 釣書ってのは」
「そのくらい知ってます。そうでなく、この一番上のもの、報告書の写しに見えるんですが」
「あーそれはね。でもほら、このあたりから」
確認済みの書類を片手に寄せて、空いた手でそっと、最上部に目隠しのように積まれた紙をどける。その下からは、色も材質も様々な、ハードカバーの本のようなアルバムのようなものが発掘された。二つ折りのその中には、五条としては見飽きてしまったお見合い写真と釣書が差し込まれている。
「……結婚するんですか」
短い沈黙を破るように落とされた七海の声は、何かを押し殺しそこねたようだった。縮こまって強張った声色を放った裡で、七海は何を思ったのだろう。
「まあいずれは? ゆくゆく? じいやが子供見たいって煩くてさ」
五条の脳裏に浮かぶのは、「坊ちゃまのご子息のお顔を見るまでは死に切れません」と泣くじいや。あれは数年前の、酒の席での珍事だ。さりとて世話係のじいやには随分と迷惑をかけた覚えがある。だから五条としても、ささやかなその願いを無碍にはできない。しかし。
「それ以前に相手いないしって言ったら、これだよ」
数撃ちゃ当たる戦法とでもいうのだろうか。しかし最低限の選別は済ましているらしく、ただやみくもにやけくそに送ってきているわけではないようだ。お陰で送ってくるなとも言えず、けれど見合いの場を設けるのも面倒で、仕事を言い訳に断るしか出来ずにいる。そんな不毛さに、五条の口からは乾いた笑いが漏れた。
「……なら私でもいいでしょう」
「は?」
「恋愛結婚を望んでいるわけでもない、政略結婚でもない。なら、私でも大丈夫じゃないですか」
「いやいやいや、大丈夫なわけないだろ」
「自分で言うのもどうかと思いますが、優良物件だと思いますよ」
「え、何、七海バグった?」
思わず口をついたのは紛れもない本音だ。けれどその程度では、ブレーキの壊れた生真面目な後輩の口は塞げなかったらしい。
「自分の身は自分で守れますし、術師の任務への理解も勿論あります。それなりに忙しいので常に完璧には無理ですが、家事も得意なほうです。それに、アナタの非常識さについていける数少ない人間だ」
「おい、ディスんなよ」
「それで、どうでしょうか」
確かに、一般的な呪術師あるいは補助監督から見れば、七海は間違いなく優良物件と言えるだろう。彼の自己分析は概ね正しい。
しかし五条本人、というよりも五条家一同から求められている条件を、七海は満たしていない。それが幸か不幸かはおいとくとして。
「あのさぁ、オマエは男、僕も男。男同士じゃ子供は出来ないだろ」
「何か無いんですか。そういう、都合の良い呪具みたいなもの」
「いや無いよ。あっても使わないよ」
「チッ」
「マジの舌打ちじゃん。こわ……」
ヤクザも裸足で逃げ出すような迫力に、五条は思わず後退る。が、しっかりとした造りの背凭れに阻まれて、二人の距離はさほど開かなかった。まるで猫に睨まれた鼠の気分だ、反撃できないタイプの。
「ていうか、オマエ……僕のこと好きなの?」
確認、というよりもつい零れた言葉には、五条の戸惑いがありありと表れていた。むしろ戸惑い以外に何を感じろと言うのだろうか。
七海の普段の態度はいわゆる〝塩対応〟だ。その素っ気なさやらあけすけな物言いやら、気遣いの必要ない距離感なんかを気に入っているから、それらに文句はない。けれどそこに好意――しかも結婚を申し込まれるほどの想いが秘められていたとは、流石の五条も気付けなかった。
「そうですね。自分でも趣味が悪いと思ってますが」
「オイ」と唇を尖らせながらも、五条はこっそりと安堵した。自分のよく知る七海の態度に戻った気がしたからだ。しかし安堵したのも束の間、砕けて和んだ空気を仕切り直すように、七海は咳払い一つと爆弾を落とす。
「負け戦に挑むつもりはなかったんですが、思っていたよりも手応えは悪くないので……」
「え、そう? 僕、オマエの勢いに結構引いてるけど」
五条と七海の認識には、広く深く埋められない溝があるらしい。物理では表せなかった心の距離感を、五条は再び実感した。もしかしたら見えているものすら違うのかもしれない。
表情から声色から、全てをもって七海の見立てを否定するも、当の本人は意に介した様子もない。その余裕たっぷりな笑い方に、五条は宇宙人でも相手にしているような気分になってしまった。ゾワッと背筋に鳥肌が立つ。
「これから本気で口説くので、覚悟していてくださいね」
口元にだけ浮かべていた喜色を顔中に広げて、七海はまさににっこりと笑う。その笑顔に言い知れない圧を感じて、五条は小さく悲鳴を上げてしまった。