口説くというのは、世間一般的にどういうことを指すのか。
つい昨日、宣言されてから24時間も経っていない七海のそれに、五条は大いに頭を悩ませていた。何もかも、宣言するだけして行動を起こさない七海がいけない。
昨日は言いっ放しで部屋を出ていくし、それ以降、七海からの接触はない。別に待っていたわけではないが。七海も知るはずの私用のスマホは、相変わらずピクリとも動かない。何かして欲しいというわけではないが。
けれどその中途半端さが、〝口説く〟という言葉が本気なのか冗談なのかを判別できなくさせている。これが恋の駆け引きというものなら、七海は百点満点を取れるだろう。
そんなことを考えながら暇を持て余していた五条は、七海に出会した。正確にはもうすぐ遭遇するところだ。
執務室から伸びる真っ直ぐな廊下の先、右手の曲がり角の向こう側に、七海の呪力がある。六眼をもってすれば壁なんて無いも同然だ。けれど高専内でもピリピリと気を張っているわけではないから、充分に近付くまで気付かなかった。このまま歩けば鉢合わせは免れない。どうしたものかと考え込んでしまった五条の脳裏には、昨日のやり取りが過っている。口説くって何だ。
脇に逃げ込める空き部屋はない。もし運が良ければ、七海は彼から見て右側、つまり五条の進行方向に曲がってくれるだろう。けれどこういうときは嫌な予感ばかり当たるのだ。
一歩二歩と角から出てきた七海は、くるりと向きを変えて、五条を真正面に見据えた。そこで五条の存在に気付いたのか、顎を引くように顔を上げる。サングラスの奥の目は軽く瞠っているかもしれない。そうしてごくごく軽い会釈とともに「お疲れ様です」と一言落とした。
「うん、オツカレ。っても僕はこれから任務だけど。七海はもう終わり?」
「はい。明日は遠方なので、どうも気を遣わせてしまったようですね」
「はぁ〜その気遣い、僕にも分けてほしいもんだね」
「アナタの場合、普段の我儘と相殺されているのでは?」
「おう何だその言い草は。先輩に向かって」
戯れ合いみたいな軽口を叩けたことに、五条は内心ホッと息をついた。開口一番、歯の浮くような言葉の羅列を聞かされる事態は、どうやら免れたらしい。そもそも、呪術師の中では常識人枠の七海が、こんな誰に聞かれるかもわからない場所でプライベート極まる話題を出すわけもない。突飛な言動と押しの強さで忘れかけていたが。
ひとまず安心すれば、五条にもいつもの調子が戻ってくる。お
土産は何が良いだとか、そんなことを言ってはダルくウザく絡んでいく。相手をする七海は慣れたものだ。これこれこの調子と上機嫌になっていると、五条のほうにタイムリミットが来た。遠くから駆け寄る足音とかすかに名前を呼ぶ声が聞こえる。
「じゃあ」
「五条さん」
被せるように名前を呼ばれて、五条は七海を振り返る。その顔は思ったよりも近くにあった。たたらを踏みそうになる足を持ち堪えて、すると、下ろしていた手を七海に取られる。
胸のあたりまで掲げられた左手は、七海の右手にガッツリと捉えられている。力強い四本の指とは裏腹に、七海の親指はゆっくりひっそりと、五条の肌のすぐそばを滑っていく。触れるか触れないか、目視できないほどの距離だけ取って、七海の指は遠ざかっていく。肌が粟立つように思えた。
「任務は何時頃に終わりますか」
「いや、ちょっと、わかんないかなぁ」
何事もなかったように話を続ける七海に、五条は一瞬つられそうになった。七海はただ呼び止めるために手を取っただけで、その手を握り直したから指が動いただけで、つまりはその態度通りに〝何事もなかったのだ〟と。けれど首筋にひりついたような刺激が残って、〝何事かがあったのだ〟と主張する。恋愛経験乏しい自覚のある五条だが、今は自分の直感を信じることにした。つまり逃げの一択だ。
そうして、適当に誤魔化して曖昧に笑ってやり過ごそうとした五条を、しかし七海は逃がす気がないらしい。さり気なく引き抜こうとした左手は、より力の籠められた右手に捕まったままだ。動かない、動かせない。
「食事に誘いたかったんですが、今日は無理そうですね」
「あー今日はちょっと難しいかなあ……」
「でしたら明後日はどうですか。空いてましたよね」
「エ、何で知ってるの」
引っくり返った声が出た。秘匿事項というわけでもないが、他の術師のスケジュールなんて誰かに尋ねなければ知りようがない。この場合の誰かは伊地知だ。七海が訊けば素直に吐くだろう人選だから、次会ったときにチクチク言い続けるだけで勘弁してやろう。
「空いてますよね」
「あ、うん、空いてるよ」
現実逃避していた脳内では、ロクな返しも浮かばない。失言を避けて口を閉ざすと、七海は急にしょんぼりとトーンを落とした声を出す。「ダメですか」なんて、断られると欠片も思ってないからこそ出る言葉だろう。事実、五条は七海がたまに見せる、後輩らしさを全面に押し出した態度に弱い。ちょっとしたお願いなら叶えてやりたくなってしまう。
「……まあ、食事なら」
途端に明るい声で返事をされる。もしや演技だったのか。五条は思わず、早まったかもしれないと滅多にしない後悔をした。