元から、海は六眼のフィルターの掛かりにくい場所だった。呪力の蠢いていない一面の青は、都心の街並みと比べれば静かで落ち着いたものだった。それでも海に向けられた負の感情は薄い膜のように覆い被さっていたし、水中に潜む呪霊を見つけることもあった。
それが今はどうだろう。五条は灰色がかった六眼を海に向ける。
呪力の膜は相変わらずだ。けれど朝靄より薄いそれは、随分と存在感を失くしてしまった。水中の呪霊なんてゴマ粒に感じられるくらいに弱体化している。冬の頼りない日差しのもとでも、海の青さがありありとわかる。眼前に広がる景色をきれいだと感じて、今ならきっと、七海の家から眺める夜景もきれいだと思える気がした。
五条と七海は先輩後輩で、高専所属の呪術師としては同僚で、勤続年数などの諸々を鑑みれば僅かな上下関係が生じなくもない。そんな間柄だ。家に招いたり招かれたり、普通ならそんなことをする距離感ではない。しかし七海にとっては不幸なことに、彼は五条の横暴に耐性があった。
七海が復帰した当初、五条は多忙の合間を縫って彼に稽古をつけた。「強くなってほしかった」というのは嘘偽りない本音だが、勿論それだけではない。有り体に言えば、久しぶりの懐かしい姿を見て構わずにはいられなかったのだ。
それはもう、イヌネコをもみくちゃにする小学生のように構い倒していた。そう言って笑ったのは家入だったか。
最初こそ、七海は抵抗していた。当然だ。しかし悲しいかな、学生時代からの力関係に対する慣れと一般社会で揉まれて得た諦めが、彼にはあった。それから早々に流されるようになった七海は、けれど譲れないことに関しては石のように動かずに、五条との距離感を適切に保っていた。あくまで二人にとっての適切だったが。
五条が七海の自宅に招かれたのも、その適切な距離感ゆえの出来事だった。確か、五条が手料理を食べたいと駄々をこねたのが切っ掛けのはずだ。
任務続きでまともな料理にありつけていないだとか、気の抜けない相手との会食は砂を噛んでいるようで辛いだとか、稽古終わりに奢ったお返しにだとか。本音と誇張と冗談を混ぜて言い募れば、反論を面倒臭がった七海は渋々と家に上げてくれた。一回招けば満足するだろうと予想したのかもしれないが、五条は一回招かれたら次を催促するタイプだったのが、七海の誤算だろう。そうして五条はじわじわと七海のテリトリーを侵食していったのだ。二人分の食事を用意することと五条を追い返すこと、二つを天秤にかけて、七海が後者をより面倒と判断した結果ともいえる。
そんな七海宅のリビングには掃き出し窓があって、ベランダに繋がっている。無精をした五条が出入りに使うこともあったそこからの夜景は、おそらくは、世間一般的にはキレイなものなのだろう。普通の感覚を理解していた五条も、社交辞令として言葉にしたはずだ。しかしどれだけ取り繕っていても、五条の心は微塵も動かなかったというのが事実だ。
だけど今見たら違うかもしれない。キラキラと輝く遠くの光を眺めて、前とは違うことを感じるかもしれない。感動できるかもしれない。いつもの知的好奇心からだけでなく、見てみたいと五条は思った。しかし家主不在では招かれるはずもない。
ピュウと一際強い風に肩を竦めて、五条は来た道を引き返した。