真白い部屋に、怪訝がる五条の声が響く。隣に立ち尽くす七海は呆れて言葉も出ないようだ。
一面に白く塗られた床と、同じく白い壁に掛けられた意味不明な言葉。白で固められた部屋には五条と七海の姿しかない。五条の眼で見た結果がそれなのだから、呪力を帯びたものは二人以外にないのだろう。部屋全体を覆う呪力に紛れている可能性もあるが。
この異様な空間に放り込まれる前、少なくとも五条は廃ビルの中にいた。テナントが次々潰れて負傷者が相次ぎ、ついにはオーナーがビル屋上から飛び降りた――そんな、呪われたビルとしてとてもホットな場所。そこに発生した呪霊を祓うという、呪術師としてはよくある任務だった。
予想通り、無事に祓い終えて一息ついて、瞬き一つ。アイマスクで遮られた変化のない視界の中で、呪力が揺らめいたのだ。新手を警戒しつつ、五条はポケットの中で掌印を結ぶ。そうして、そっと上げた黒い布の下から見えた景色は、一瞬前とは一変していた。
隣で五条と同じように立ち尽くす七海も、似たような経緯で引き込まれたのかもしれない。右手には愛用の鉈を持ったまま、警戒を緩めていないのか、ピリピリとした空気が伝わってくる。
「何に気付けってんだかね」
「さぁ……」
世間話を振った五条の言葉に、七海は警戒と困惑の両立した声で応える。ヒントも何も無い設問に、五条と七海の二人がかりでもお手上げとなっていた。実際、これを企てたのが呪詛師なら閉じ込めた呪術師――特に五条を解放するつもりはないだろうが。
「……どうにか出来ないんですか」
「どうにかって?」
「解呪、祓除……でなくとも、この空間を壊すだとか」
「え〜七海ったら物騒〜!」
わざとらしくしなを作って揶揄えば、鋭い舌打ちとともに七海の蟀谷に青筋が浮かぶ。威圧感も三割増しで、これ以上は仲間割れの危機かもしれない。五条はそっと居住まいを正した。
「うーん、出来なくもないと思うけど」
「無事では済まない、と」
「中も外もね〜」
二人が閉じ込められたのは、強い膜のようなもので覆われた空間だ。その中でたとえば茈をぶちかましたとして、どんな反動があるかは五条にもわからない。最悪の場合でも五条は何とかなるだろうが、七海を守り切れる保証がない。言外に含ませた意図に、「それでは最終手段ですね」と七海はあっさりと頷いた。
「まぁでも、オマエの何かに気付けばいいんでしょ」
「そんな単純なものですかね……」
「そりゃね、この僕を閉じ込めてるんだから」
身体をかがめてパチンとウインク一つ。眉間のシワを二センチは深くした七海は、長々と溜息を吐いた。なんて失礼な後輩だろうか。
気を取り直し、五条は七海を真正面に見据えて首を傾げる。
「……昨日より髪が伸びたとか!」
「ほとんどの人間に当てはまりますよね、それ」
「じゃあ、昨日と服が違う!」
「それも……いえ、制服の場合は当てはまりませんが」
「え……もしかして昨日と同じ服?」
「これは制服ではありませんし、それを言うならアナタのほうでは?」
「……えーと、昨日よりくまが濃い……?」
「連勤していたので疲れはありますが、そこまででは無いです」
「あ、じゃあヒゲが伸びてる!」
「今朝剃ったので違うでしょうね」
「……オマエもさあ、僕の言うこと否定するだけじゃなくて、もっと協力しようって態度見せろよな」
「アナタの言うことが当てずっぽう過ぎるんですよ」
もっともな指摘に目を逸らせば、七海は呆れたように溜息を追加した。視線を合わせずやり過ごした五条は再び気を取り直し、七海をじっと見据える。
頭のてっぺんから靴の先まで目を凝らして、そんなことをしても、昨日と今日での些細な変化に気付けるとは思えない。一応は解決方法が提示されているというのに、やはりお手上げなままだ。
「でも昨日との変化ってよっぽどじゃないとわからないだろ」
「そもそも、昨日アナタと会った覚えはありませんが」
「何を言っているんだ」と大変失礼な眼差しを向ける七海に、五条は確かにと頷いた。昨日の高専内、五条は七海を勝手に見かけただけだから、当人の記憶にないのも当然だ。
「昨日、高専の廊下でさあ、何か話してただろ。ほらあの、新人の補助監督の子と」
「……情報が大雑把ですが、そうですね、打ち合わせをしていました。いたんですか?」
「たまたまね。それで補助監督の子、七海のファンだって言ってたからさ、邪魔しないであげようかなって」
「……気にせず声を掛ければ良かったじゃないですか」
「いやあ? そんな用も無かったし」
「いつもは用が無くても絡んでくるでしょうに」
「おい誰が暇人だって?」
ちょっとドスを効かせた声を出して、けれど五条自身も「だよね」と内心で同意する。普段の五条だったなら、切羽詰まった雰囲気でもなければ、相手も自分の都合も考えずに話し掛けていた。七海相手なら肩を組むオプションも付けていただろう。
しかし昨日はしなかった。というより出来なかった。
人の醸し出す空気――とりわけ恋愛方面に疎い五条でも見てわかるくらい、補助監督の彼女は七海を一心に見つめていた。七海のほうも、お愛想とはいえ笑顔を浮かべていて、お似合いなんじゃないかと思ってしまったから。そんな思いつきが、ポツリと言葉になる。
「オマエ、楽しそうだったから」
「仕事の話をしていただけですよ」
「いつもより笑ってたし、なんかイイ雰囲気だったし」
「常に顰め面なわけではありませんから」
「僕の前だとそーじゃん」
まるで不貞腐れた子どものようだ。
七海が誰と談笑していたって、五条には全く関係ないはずだ。相手が呪詛師だとか上層部だとかなら呆れ心配もするが、今回はその限りでない。なのに何故、こんな拗ねた気持ちになってしまうのか。
斜め下にそらした視界に七海は映っていないが、彼こそ呆れた顔をしているに違いない。そういじけてしまう程度には、五条自身、自分の感情の置きどころがわからなくなっていた。
「不機嫌ですってツラして溜息吐いてばかりじゃん」
「それはアナタの日頃の行いのせいでは?」
「でもオマエ、声掛けただけで嫌そうな顔するもん。硝子とか伊地知にはしないのに」
ぐずぐずと視線を落としたままの五条の耳に、七海の深々とした溜息が届く。言ったそばからこれだ。
「そんな顔しておいて、まだ自覚しないんですか」
「……何の話だよ」
「気付かないといけないもの、のことです」
「はぁ?」
直角くらいに曲がった話題転換に、五条は面食らう。無言で続きを促せば、七海は言葉を選ぶように慎重に口を開いた。
「アナタ、日頃の行いのせいで、家入さんには鬱陶しがられ、伊地知くんには怯えられていますよね」
オブラートを破り捨てた言葉に片眉を上げるも、事実ではあるから五条は否定しない。誠に遺憾だが肯定するしかない。遺憾だが。
「それらに関してはどう感じますか」
「別にいつものことだし。伊地知は時々ウザいけど」
五条は、同年代より上には鬱陶しがられることが多く、下には怯えられることが多い。今更、思うところもない事実だ。
「私も同じじゃないですか」
五条の脳裏に、まだ幼く頼りない姿の七海が重なる。
「学生の頃から、私のアナタへの接し方はあまり変わってないと思いますが」
改めて言葉にされてみれば肯くほかない。高専の頃から、七海は五条のやることなすことに溜息や顰め面で反応していた。人懐こい灰原が隣にいたから、特に七海の仏頂面は記憶に残っている。
「もし変わったと思うなら、それはアナタの心境に変化があったからじゃないですか」
あの頃は、そんな無愛想なところも揶揄われて反発するところも含めて、打てば響く面白い後輩だと思っていた。それだけだった。しかし今は。
チカリと頭の片隅で何か閃きかけたそのとき。五条の視界の端、壁しか無かったはずの場所に、扉が出現した。