認めないと出られない部屋

「気付かないと出られない部屋ァ?」
鋭く尖った五条の声に、七海は困惑して返事もできなかった。
壁と床の境もわからない真っ白な部屋。その天井近くにお題目のように掲げられた言葉を、きっと五条は口にしたのだろう。
しかし七海には『認めないと出られない部屋』と読めたから、二重の意味で理解できなかった。
六眼を欺ける方法があるとは思えないから、二人それぞれに違う言葉が見えているのだろう。五条を出し抜くための縛りという可能性も捨て切れないが。
この異様な場所に閉じ込められる直前、七海は空き家で呪霊の祓除にあたっていた。居住者の不審死が続き、後先考えない若者の肝試しスポットとなっていた一軒家。帳で覆われた屋根の下、呪霊が霧散するのを見届けた直後、瞬き一つの間に視界が白く塗り潰されたのだ。あまりの明度差に目眩がしそうだった。
おそらく同じような経緯で閉じ込められただろう五条は、難しい顔をして黙り込んでいる。顎を支える手で唇を揉むのは、彼が考え事をしているときの癖だ。
「何に気付けってんだかね」
「さぁ」
不意に世間話を振られて、七海の返事は曖昧なものとなる。その態度を五条に不審がられずに済んで、七海は内心で息をついた。
七海にとって、五条の第一印象は〝きれいな人〟だった。しかしそれは本人の性格によって〝厄介な人〟へと、瞬く間に変わる。努力に裏付けられた自信と、それによる傲慢さ、何より自分含めた周りの人間への接し方。諸々を総合した感想だった。
それは卒業して出戻りを果たしても変わらない。はずだったのだが、最近、それだけでないことに気付いていた。
けれどそれだけでない・・・・・・・ものに名前を持たせたくなくて、七海はお願いのような伺いを立てる。
「どうにか出来ないんですか」
「どうにかって?」
「解呪、祓除……でなくとも、この空間を壊すだとか」
「え〜七海ったら物騒〜!」
白々しい声色とポーズだ。そう言い聞かせて自分を誤魔化すことも難しく、思わず舌打ちが出る。
「……うーん、出来なくもないと思うけど」
「無事では済まない、と」
「中も外もね〜」
「それでは最終手段ですね」
最強の五条がどうにかなるはずもなく、この場合、無事で済まないのは七海のほうだろう。そうして、五条がそんな強硬手段を取らないことを七海は心の隅で喜んでしまう。七海を特別視したゆえの判断でないとわかっていても。
「まぁでも、オマエの何かに気付けばいいんでしょ」
「そんな単純なものですかね……」
「そりゃね、この僕を閉じ込めてるんだから」
七海も見上げる長身を屈めて、五条はパチンとウインクをする。その何の気なしの仕草に、心揺らされている人間がいるとは露ほども思ってないのだろう。
無反応の七海に飽きたのか、五条は縮めていた体を伸ばして、またも顎に手を添える。
「昨日より髪が伸びたとか!」
「ほとんどの人間に当てはまりますよね、それ」
呆れたように言えば、五条はムキになって問答を続けた。
「じゃあ、昨日と服が違う!」
「それも……いえ、制服の場合は当てはまりませんが」
「え……もしかして昨日と同じ服?」
「これは制服ではありませんし、それを言うならアナタのほうでは?」
「……えーと、昨日よりくまが濃い……?」
「連勤していたので疲れはありますが、そこまででは無いです」
「あ、じゃあヒゲが伸びてる!」
「今朝剃ったので違うでしょうね」
「……オマエもさあ、僕の言うこと否定するだけじゃなくて、もっと協力しようって態度見せろよな」
「アナタの言うことが当てずっぽう過ぎるんですよ」
図星を指されたらしい五条は、あからさまに視線をそらした。七海は今度こそ呆れて溜息を吐く。
「でも昨日との変化ってよっぽどじゃないとわからないだろ」
「そもそも、昨日アナタと会った覚えはありませんが」
七海を見掛ければ、何はなくとも絡みに来るのが五条だ。昨日遭遇していたら流石に覚えているはずだから、五条の勘違いの可能性もある。しかし七海の予想に反して、五条は記憶を漁るように訥々と喋る。
「昨日、高専の廊下でさあ、何か話してただろ。ほらあの、新人の補助監督の子と」
「……情報が大雑把ですが、そうですね、打ち合わせをしていました。いたんですか?」
「たまたまね。それで補助監督の子、七海のファンだって言ってたからさ、邪魔しないであげようかなって」
滅多と出ない五条の気遣いが、珍しく発揮されたらしい。気遣いだけではないかもしれないと思うのは、七海の自惚れだろうか。
「気にせず声を掛ければ良かったじゃないですか」
「いやあ? そんな用も無かったし」
「いつもは用が無くても絡んでくるでしょうに」
「おい誰が暇人だって?」
ガラの悪い声を作ったかと思えば、一転、五条は居心地悪そうな顔をして、七海から目を逸らす。さっさと吐いてしまえと無言の催促をすると、五条は小さな声で呟いた。
「……オマエ、楽しそうだったから」
「仕事の話をしていただけですよ」
「いつもより笑ってたし、なんかイイ雰囲気だったし」
「常に顰め面なわけではありませんから」
「僕の前だとそーじゃん」
不貞腐れたような五条の声に、七海には「もしかしたら」という思いが募る。
最近、五条と出会す頻度が高くなっていたとは、七海も感じていた。あくまでそれは、高専生の頃より立場が近くなったお陰だとか、あるいは未だ五条が高専内に住んでいるからだとか、そういうことだと納得していた。
しかし、もしかしたら、五条も望んで七海に会いに来ていたのだとしたら。
自分の中にあった期待を直視した途端、視界の端に扉が出現した。一瞬前まで壁だったはずの場所だ。驚きに上げそうになった声は音になる前に呑み込めた。
七海の動揺は、俯いていた五条には見られなかったらしい。七海は安堵の溜息も呑み込んだ。
「不機嫌ですってツラして溜息吐いてばかりじゃん」
「それはアナタの日頃の行いのせいでは?」
「でもオマエ、声掛けただけで嫌そうな顔するもん。硝子とか伊地知にはしないのに」
「……そんな顔しておいて、まだ自覚しないんですか」
思わず漏れた本音に、五条は訝しむ声を出した。
「何の話だよ」
「気付かないといけないもの、のことです」
「はぁ?」
急な話題転換のように思えただろう七海の言葉に、五条は不審そうな声を上げる。
特級と一級を拘束できて内心の変化まで察知する、しかも閉じ込めた人間それぞれに全く違う条件を課す。――というのは、現実的に考えづらい。対象は同じものではないかと、七海は推測を立てる。
もしそう・・ならば、この調子では五条はここから出られないままかもしれない。有り得ないと断言できない可能性を危惧して、七海は五条に向き直る。
もっとも、前提の推測からして七海の願望かもしれないが。
「アナタ、日頃の行いのせいで、家入さんには鬱陶しがられ、伊地知くんには怯えられていますよね」
身から出た錆の事実だとしても、耳に痛いことはある。五条の顔には「面白くない」と大きく書かれていた。
「それらに関してはどう感じますか」
「別にいつものことだし。伊地知は時々ウザいけど」
「……私も同じじゃないですか」
五条はまだ話が繋がっていないようだ。ピンときてないらしく、七海はもどかしさまで感じてしまった。
「学生の頃から、私のアナタへの接し方はあまり変わってないと思いますが」
というのは、五条を誘導するための嘘だ。まるきり虚偽というわけではないが、出戻りして五条が気になり始めてから態度が軟化したという自覚が、七海にはある。
「もし変わったと思うなら、それはアナタの心境に変化があったからじゃないですか」
五条を見据えて、どうか気付いたその先が自分に向いてほしいと、七海は願う。と、じっと考え込んでいた五条の視線が動く。
青い目が見つめる先、そこには、七海には随分と前から見えていた扉があった。