一目惚れした瞬間を、七海は昨日のことのように思い出す。

場所は居酒屋、宴も酣を絵に描いたような個室で、七海は顔色一つ変えずに酔っていた。前と今の人生二つ合わせても初めての泥酔だった。
部屋の中を見渡しても、並ぶのは気心知れた顔ばかり。たった一人の同級生が隣にいて、反対側に座るのは面倒を見た後輩。個室の奥、いわゆる誕生日席には迷惑をかけた恩師がいる。アクの強い先輩たちは、大小大の懐かしい並びで対面に陣取っている。
まるであの頃の再現のような光景だ。だからこそ七海の気も緩んでしまっていた。
酔っても、見た目にも態度にも表れないというのは厄介だ。限界値はとっくに超えているのにそうと気付かれないお陰で、止めてくれる者は誰もいない。もっとも、この場にいる半数は止めるどころか煽りかねないタイプだが。
酔っている自覚はあっても目の前の酒を無視できない七海は、ちびちびとダラダラと飲み続ける。いつもより消極的なペースになっているのは、消し飛びそうな理性による慎ましやかな抵抗だった。
その姿を「退屈している」と誤解したのか、斜め前に座っていた五条が隣に押し掛けてくる。灰原が御手洗に立った隙を突いた、鮮やかな手口だ。グイと体ごと顔を近付けてくるのはまさに絡み酒といった仕草だが、彼が手にしているのも口にしたのもノンアルコールのみだ。前からパーソナルスペースの狭いひとだったが、術式がなくなっても変わらないものらしい。
「何、つまんないの?」
吐息が感じられそうな、どころでなく鼓動さえ聴こえそうな距離で、五条は七海の顔を覗き込む。前からひたすら想い続けている相手の顔が間近にあって、七海としては生殺しか据え膳かと思う有り様だ。鈍くなっていた思考はピタリと停止して、余所事に意識が向かう。
七海の返答を待つために閉じられた唇は手入れもしていないらしいのに、ツヤツヤと瑞々しい。ゴクリと生唾を飲んでしまった音は上手く誤魔化せただろうか。何もしてないくせにあの顔なのがムカつく、と苛立たしげに語ったのは、確か庵だったはずだ。七海も〝ムカつく〟の言葉以外には同意する。心の中だけで。
いっそ穴を開けるつもりで見つめ続けたら、五条が肩に腕を回して揺らしてきた。どうやら沈黙に飽きたらしい。
「無視すんなよ、なーなみ」
少し拗ねたような声に、間延びして呼ばれる自分の名前。顔馴染みしかいない空間で、五条も気が緩んでいるらしい。砕けた口調は高専の頃を思い起こさせる。
「……アナタ、全く変わりませんね」
「えー前から変わりなく、花も恥じらう絶世のイケメンだって?」
言ったことが倍になって返ってきた。しかも随分とポジティブな変換を付け足している。
けれどそれが自惚れでも思い上がりでも、まして勘違いでもないというのは、五条を知る者なら誰もが首肯くことだ。彼の顔に惹き寄せられて言動で幻滅する手合いは、星の数以上に現れる。「観賞用」だとか「顔面国宝」だとか、五条のためにある言葉ではと思えるくらいだ。
「そうですね」
――などと、固めた表情筋の下で考えていたら、ポロッと本音が落ちた。やってしまったと思っても、酔って緩んだ口はその程度では止まらない。普段なら嬉々として茶化してきそうな五条の口は、七海のそれとは反対にぱかりと開いて停止している。
「アナタと初めて会ったとき、こんなに美しい人がいるのかと驚いて、ひょっとして桜の精か何かじゃないかと疑いました」
――そんな高揚は、アナタが口を開いてすぐに消えましたけど。
目を伏せた七海の眼裏まなうらには、前の、本人の言葉通りにキラキラと輝いていた五条が浮かぶ。その様々な光景を思いつくままに、整えられぬままに、訥々とこぼす。
言葉を続けるうちに周りの話し声は減っていき、気付いたときには、大衆居酒屋には似つかわしくないくらい静まり返っていた。いつの間にか戻ってきた灰原は、我関せずとばかりにテーブルに残された料理に手を伸ばしていた。対面の先輩たち二人は、片方は呆れを滲ませ、もう片方は良いオモチャを見つけたというような視線を送ってくる。もっともその視線は、七海というよりも五条に向いていたが。
一通り食べ終えたらしい灰原が、水のようにサワーを呷ってから口を開く。
「七海って、五条さんのこと大好きだよね」
「ええ」
簡潔に要約した問いに、七海は反射のように頷いた。生まれ変わる前、それは墓場まで持っていこうと決意して実行した想いだった。が、ここまで語ってしまえばバレただろうという自棄っぱちと、今なら認めてしまっても良いだろうという投げやりな気持ちが、七海の口を動かした。
灰原はLIKEライクともLOVEラヴとも取れる物言いをしたが、果たして当の五条には伝わっただろうか。能動的でない、こんな形の告白で伝わってしまえと、伝わってほしいと願うのは臆病が過ぎるだろうか。
ずっと黙り放しの隣席を窺おうとして、手元に固定していた視線を上げる。と同時に、思ったよりも視界が揺れた。
飲み過ぎだと、冷静に自省する声が聞こえた。