湖畔にて 一日目

その年の夏、建人は家族とともに別荘で過ごすことになった。場所は富士山に一番近い湖のほとりらしい。
建人の父は、その湖はどこにあってどんな特徴があるのか、果てには周辺地域の年間日照時間まで詳しく教えてくれた。けれど、まだ地理を習ってもいない建人では話の半分も理解できず、ただ、湖の中央には島と神社があることだけを理解した。
建人の母は、いつも通りにおっとりと荷物をまとめていた。母が建人と同じくらいの歳の頃には、毎年どこかの別荘に泊まっていたから慣れているらしい。
建人は、初めて泊まる別荘なるものに、少しの緊張といっぱいの好奇心を抱えていた。泊まりの旅行は初めてではないが、今までの宿泊先はホテルか旅館ばかりだった。
ホテルや旅館には従業員がいて、大概は他の宿泊客がいて、施設内では人の気配があることのほうが多い。だから管理人が不在時にしかいないという別荘は、建人にとっては未知の存在であり未踏の場所だ。
ドキドキしながら到着した別荘は、初めて見るような家だった。和風なわけではない。けれど建人の家ともご近所さんの家とも雰囲気の違う外観は、彼の目にはとても不思議なものに思えた。
中は広々としていた。煙突の伸びるストーブが一番に目に入って、ストーブを取り囲むように、二階への階段が設置されている。建人は薪ストーブというものを初めて見た。
大きくてフカフカとしていそうなソファは木製のローテーブルとセットになっていて、それらの前にはこれまた大きなテレビが置いてあった。電気屋さんでしか見ないような大きさだ。
テレビと反対側は大きな窓になっていて、窓の外にはデッキが続いている。窓からデッキに出られるようになっているらしい。デッキから見渡せる景色は家の周りに広がる自然と繋がっていて、家が丸ごと秘密基地になっているようだった。
ソファの奥にはキッチンがあって、さらにその奥にはトイレか収納があるのだろうか。一階をぐるりと見渡して、建人の目はキラキラと輝いた。非日常の中にいることをより強く感じられたから。
荷物を下ろす父と母を余所にして、建人は足音も高く、階段を駆け上がった。一階を見て得られた高揚感から、建人の中での二階への期待は高まるばかりだ。
二階には、真夏の日中にしては柔らかい陽光が差していた。ドアは二つあって、大きいほうが父と母の使う寝室で、小さいほうが自分の部屋だろう。建人は部屋の中を後回しにして、階段から見て奥にある、開けたスペースを探検することにした。
窓からの日差しで淡く輝いているように見えるそこには、大きなクッションと、床には畳のようなカーペットが敷いてある。クッションは、触るとどこまでも手が沈み込んでいく。背中から倒れ込むように身を預けると、クッションに埋もれて起き上がるのも難しく感じるほどだった。
じわじわと忍び寄る睡魔を振り払って、建人は自分の部屋の探検を始める。とはいっても部屋の内装はシンプルなもので、部屋の中央に大きなベッドが一台、ハンガーが数本と小さい引き出しのあるクローゼットと、その隣に作り付けの机があるだけだ。
夏休みの宿題を詰めたリュックを床に置いて、ボスンと音を立ててベッドに寝転がる。建人の自宅のベッドよりもずっと大きいそれは、寝転んで腕を伸ばしても、端には届きそうもない。
天窓から落ちる淡い陽光を感じていると、さっき振り払ったはずの睡魔が戻ってくるのがわかった。ふわふわと雲の上にいるような柔らかさを感じながら、建人は今度こそ睡魔に抗わずに眠りに落ちた。

◆ ◆ ◆

ふわりと甘い香りが漂ってきて、建人の意識は浮上した。たっぷりと寝たつもりだったが、天窓からの日差しは寝る前と変わらなく見える。ベッドの上で起き上がって、ググッと目一杯に体を伸ばした。
ベッドの端、入口近くの角には、寝入る前にはなかった衣服の山がある。それは、父のスーツケースに一緒に入れていた建人の服だ。
引き出しに服を仕舞ってから、建人は階段を駆け下りた。キッチンに面したカウンターには母がいて、ゆったりと紅茶を楽しんでいるようだ。
「建人、お早う」
「おはようございます。あの、お父さんは?」
「お父さんはねぇ、釣りに行っちゃったの」
「建人も行きたい?」と訊かれるが、いまいち気乗りしない。「釣りなら明日でも行けるものね」と紅茶を勧める母には、そんな気分も見抜かれているのだろう。
「釣りに行かないなら、少しお散歩に行ってみたら?」
「お散歩?」
建人が思い描くのは別荘の周りに広がっていた林だ。整備されているとはいえ、お散歩と称して無計画に分け入れば道に迷うだろうことは、考えなくても容易く予想できることだ。建人は訝しげに母を見つめる。
「あら、違うのよ。近くに散歩道があるの」
母はティーカップをソーサーに戻して、右手をそのまま頬に添える。小首を傾げて視線を中空に向けて、如何にも考えていますというポーズを取った。
「夏休みの宿題に、写生があったでしょう? 題材になるものを見つけられるかもしれないから」
おっとりと笑って紅茶のおかわりを注ぐ母に、建人は「確かに」と内心で頷いた。
「きれいだと思ったものを絵にしましょう」という抽象的な出題は、実を言うと彼の悩みのたねだった。家の周り、よく出掛ける範囲で見るものに、いまさら「きれい」という感慨を抱くことはできない。遠出をすれば「きれい」と思えるものがあるかもしれないが、建人が夏休みの間も変わらず働いている父にねだるのは気が引けた。生真面目すぎたのが仇になっている。
「行ってみます」
「じゃあ、お出掛けの準備をしましょうね」
ウキウキと立ち上がる母を制して、建人は自分の部屋に戻る。甘い香りの元は母の作るスポンジケーキのものだから、一緒に行くという選択肢は、建人にはなかった。
「ケータイは持った? 充電器は?」
「どっちも持ちました」
「あまり遠くに行かないで、ここが見えるところまでにしてね」
母は建人の携帯電話にアラームを設定した。家に到着するべき時間と、折り返しのタイミングがわかるように、その時間の半分の二つだ。
別荘が見える範囲というと、案外と狭そうだ。隙間があるとはいえ木が立ち並んでいるし、起伏もある。けれど、母と行かないことを選択したのだから仕方ない。
父に持たせてもらったカメラと水筒、スケッチブックと筆記用具をリュックに詰めて、アラームのセットされた携帯電話を首から提げる。最後に麦わら帽子を被って、建人は第二の探検に出発した。

木々の間を歩いていると、どこからともなく鳥のさえずりが聞こえる。あれは何という名前の鳥なのだろうと頭上を仰ぎ、けれど鳥の影一つ見えず、建人はずり落ちそうになった帽子を直した。
夏休みも後半の真夏だというのに、外は涼しげな風が吹いている。都会と比べたら随分と勢いのない日差しは木の葉で分散し、彼の足元に落ちるのは淡い光のみだ。それでもスポットライトのような木漏れ日が目に眩しくて、建人はギュッと目を瞑る。
パチリと目を開いた先に、建人は天使を見た。
一本一本が艷やかに光る白い髪は木漏れ日よりずっと眩しくて、けれど目を逸らすなんてとても出来ない輝きを放っている。その下の肌は美術館で見た陶磁器のようにつるりと滑らかな白色で、頬の部分だけが淡いピンク色をしていた。
何よりも印象的なのは、その目だ。
伏し目がちな横顔から覗くのはほんの少しの青色で、けれどその少しの青に、建人は釘付けになってしまっている。目が離せないとは、まさにこのことだ。
顔を上げた天使が建人を振り向いて、その大きな目をパチパチと瞬かせる。瞬きのたびに、擦り合う睫毛から音がしないのが不思議なほどだった。
小首を傾げながら、天使のようなその少年は、お手本のように微笑んだ。ただの挨拶なのに、それだけで建人の頬は火がついたように熱くなり、心臓のドキドキがいつもよりも煩くなった。
「あ、あの……」
「そこに泊まってるの?」
少年は腕を上げて指差した。指し示すのは建人の歩いてきた方向、その先にある別荘だろう。
建人は、少年の指の先を確かめようと思った。思ったけれど、その数秒で、少年がふわりと消えてしまいそうに思えて、少年を見つめながら頷いた。
心臓のドキドキはまだ収まらなくて、背中にじっとりと汗をかいているのを自覚する。さっきまでは涼しくて気持ちいいと思っていた風も、建人の火照った頬を冷ますには心許ない風量だった。
少年が、右足を前に出す。一歩二歩と足を交互に出すのを固唾を呑んで見守っている間に、少年との距離は縮まっていった。ようやく少年が立ち止まったときには、二人の距離は、一歩踏み出せば足先がぶつかりそうな程になっている。心臓の音が少年に聞こえてしまいそうな気がして、建人は心臓を押さえつけるようにシャツを握りしめた。
「僕の目ね、特別なんだ」
一歩分の距離を埋めるように、少年が身を乗り出して、建人の顔を覗き込む。今度は鼻先が触れてしまいそうだった。
少年が指を添える二つの青色は、影に入ってもなお、きらきらと輝いている。湖面が陽光を反射するように、あるいは空模様そのもののように、チカチカと色味を変える青が散らばっている。不思議な色だった。
「だから、オマエの名前もわかっちゃうんだよね」
「……本当に?」
他の誰に言われても嘘だと断じる言葉なのに、この少年が言うと、真実ではないかと思ってしまう。それ程、目の前の少年は異質な雰囲気を醸し出していて、その両眼は不可思議な色をしている。建人は生唾を飲み込んだ。
「本当に。名前は……建人、だよな?」
驚きに、建人は目を見開く。その表情の変化を見て、少年は「当たり?」ところころと笑った。その顔を見た建人は、初めて、少年と自分の年齢はあまり変わらないのではないかと感じた。それまでの少年は、まるで学校の先生のように大人びた態度をしていたので。
「ね、一緒に遊びに行こうよ」
「行きたい、です!」
勢い良く返事をした建人は、しかし、母との約束を思い出した。二人のいる場所は建人の泊まる別荘の見えるギリギリの範囲で、もしここから離れるというなら、母との約束を破ることになってしまう。チラチラと背後を気にしながら「でも……」と言い淀んだ反応に、少年はピンときたらしい。
「遠くに行っちゃダメなんだ?」
「うん、あの、お母さんと約束して……」
「じゃあ、ここで遊ぼうか」
「いいの?」
パァと顔を輝かせて、尻尾があったならブンブンと振っていそうな建人の様子に、少年は大きく頷いた。ゆるりと伸びた手が建人の頬を通り過ぎ、頭の上からずり落ちそうになっていた帽子を直して離れていく。建人はそれを残念に思ってしまった。
「僕、この辺り詳しいから、面白いものいっぱい見せてやるよ」
得意気な顔で笑う少年が先導するから、建人も自然と早足になっていく。期待は増すばかりだ。
「……あの」
「なぁに?」
「名前、教えてほしいです」
「僕の?」
振り返る少年に、建人は力一杯に頷いた。またもやずれた帽子を、少年は丁寧に直してくれる。
「建人の好きなように呼んで」
「え」
「僕のあだ名、建人が考えて、呼んで」
「ぼくが考えて……」
内緒話をするように建人の耳に顔を寄せていた少年は、その呟きを拾ってか、建人の顔を真正面から覗き込んできた。そうして、目と目を合わせてゆっくりと首を上下させる。名前を教えてもらえない物寂しさは、少年の青い瞳に吸い込まれるように消えてしまった。
建人の持つどのビー玉よりも、毎年行く海よりも、今まで見たどの空よりも、きれいな青い瞳だ。チカチカと星が瞬くように、あるいは海面に輝く日差しを水中から見上げたように、一度も同じ色がないように見える青だ。
海にも空にも、何にも例えがたい。何に例えても物足りない。けれど建人が一番似ていると思ったのは、それらではない。
母に連れられていく喫茶店で頼む、クリームソーダ。耳を澄ませばパチパチシュワシュワと泡の弾ける音が聞こえる、あの青色だ。
店内の照明がグラスの中の氷に乱反射して、その隙間を無数の気泡がプカプカと浮き上がっていく。チラチラと動く泡をずっと見ていたくて、けれど上のバニラアイスが溶けてきて白く靄になり、そこでようやく名残惜しく思いながら飲み干すのだ。少年の瞳を間近で見つめて、建人はあのクリームソーダを思い出した。そうしてそれが、ポロリとこぼれた。
「クリームソーダ……」
「クリームソーダ?」
「青い目が、クリームソーダと似てます……」
「それって美味しい?」
「すっごく美味しいです。でも、きれいだから、飲むのもったいないです」
「……ふぅん。じゃあ良いよ」
少年は頻りに頷きながらツイと一歩後ろに下がり、建人から離れる。建人の耳に、風の音や鳥のさえずりが戻ってきた。
「僕はソーダ。建人だけが呼んでいい名前だから、忘れないでね」
その声は、甘く耳に残った。

◆ ◆ ◆

ソーダは自己申告の通り、建人に面白いものをいっぱい見せてくれた。目につくもの全てを「あれは何?」と尋ねる建人に対しても嫌な顔一つせず、丁寧に教えてくれた。もし兄がいたなら、こんな感じなのだろうか。
建人は一つ目のアラームが鳴るまで、目一杯に彼と遊んだ。そうしてアラームが鳴って、もう半分も過ぎてしまったことにしょんぼりとしてしまった。
「それ、何で鳴ってるの?」
「戻る時間の半分で鳴るようにって、お母さんが」
目に見えて落ち込む建人に、ソーダはからりと笑う。
「じゃあ、あと同じくらい遊べるな」
「……うん!」
二つ目のアラームが鳴る直前、ソーダは建人の泊まる別荘の前まで、建人を送り届けた。玄関先で出迎えた母に向かって折り目正しくお辞儀をする様は、建人には母と同じくらいの大人に思えた。
「大人びた子ねぇ」
「……うん」
ソーダが年相応に笑う姿を、母は見ていない。まるで自分だけが知る彼の秘密のようで、建人はくすぐったい気分になった。
「何ていう子なの?」
「……えっと、ソーダさん」
「そうださんて言うの。お友達が出来て良かったわね」
母は苗字だと勘違いしたようだが、二人の間だけのあだ名を知られたくなくて、建人はその言葉を訂正をしなかった。初めてのことだ。
ソーダとは、「また明日」の約束をしなかった。し忘れていた。けれどもどうしてか、明日も同じ場所で会える気がして、建人は早く今日が終わればいいと願っていた。