湖畔にて 二日目

建人はワクワクとドキドキを同じくらい、いっぱいに感じながら目を覚ました。
ソーダと一緒に何をしようかという期待と、そもそも今日も彼がいるのだろうかという不安だ。昨日の別れ際、建人は彼と、「また明日」という約束を結ぶのを忘れていたから。
昨日と同じ準備を整えて、建人は逸る気持ちのままに家を出た。目指すのは、昨日、ソーダを見つけた場所だ。
家を出るときにはまだ父がいたから、もしかしたら今日はどこかに連れて行ってもらえたのかもしれない。けれど建人にとっては、父とのお出掛けよりも彼と遊ぶほうが魅力的だった。
玄関のドアを開けてすぐに、人影が見えた気がした。見間違いかもしれないと自分に言い聞かせながら、それでも建人の足取りはどんどんと軽くなる。最後には駆け足で向かった先には、昨日ぶりの真白い頭が見えた。バニラアイスのようだ。
「お早う、建人」
「おはようございます。ソーダ、さん」
秘密のあだ名という響きには心くすぐられるが、同時に、名前を教えてもらえない不満も残っている。ソーダをあだ名で呼ぶたびに、建人の心は二つの気持ちに揺らされていた。
「今日は、どこに行くんですか?」
「じゃあね……今日はあっちに行ってみようか」
ソーダが指差すのは昨日遊んだ場所と反対側、湖がある方向だ。

◆ ◆ ◆

「ソーダさんは、どこにいるんですか?」
「えー? 目の前にいるでしょ」
「そうじゃないです」
揶揄われていることにムッとすると、ソーダは甘やかすように建人の頬から眦にかけて指先で辿って、仕上げとばかりに眉間を撫でていく。その指先は綿毛のようにこそばゆく触れるから、建人の不機嫌は形を成す前に消えてしまう。
それでも不機嫌そうな表情を保とうとしていると、彼は声を上げて笑った。その笑顔が建人には何よりもきれいに見えて、写生の出題を満たすものは、これ以外にはないように思えた。
「……あの、写真をとってもいいですか」
「え、何で?」
さっきの言い方とは違って、今度は純粋に疑問に思っているような声だった。建人は写生の宿題と、何を描くか迷っているということを訥々と語る。
ソーダは「ふぅん」とあまり興味がなさそうに相槌を打ったあと、小首を傾げる。その頬を、白い髪が撫でるように滑り落ちる。その仕草もまたきれいで、建人はどの表情を写真に収めれば良いかわからなくなってしまって、口をキュッと噤んだ。彼の表情の一つ一つが、建人にとってはひたすらに眩しかった。
「僕を描きたいのか……」
「だめですか?」
「うーん……ダメ、じゃないけど」
腕を組んで顎に手をやって、ソーダは考え込むポーズをした。難しく険しくなった表情は、しかし、妙案を思いついたとばかりに明るくなった。
「明日、キレーな景色見せたげる。そこの写真とったら良いよ」
「……ほんとうですか」
「うん、本当。でもそこはちょっと遠いから、建人のお母さんに、ちゃんとお話ししてね」
「ぜったい、つれてってくださいね」
「絶対ね。建人もお話しするの忘れないように」
小指を立てて差し出すと、建人のしたいことを理解したソーダも小指を伸ばして、差し出された小指に絡ませる。彼の体温は建人のそれよりほんの少し低くて、触れ合った面から二人の体温は混ざり合い、均一なものになっていく。ひんやりとした感触に、建人はピクリと肩を跳ねさせた。
指切りが終わって小指を離すとき、建人は何故だか「もったいない」と感じてしまった。対するソーダはさっさと手を離していたから、余計に感じた。けれど。
「じゃ、行こうか」
するりと、まるで当たり前のこととでもいうように、ソーダは建人の左手を握って歩き始める。手のひらに心臓が移動してしまったようにトクトクと高鳴る鼓動が、それに合わせてじわじわと上がる体温が、彼に気付かれてしまいそうだった。
木々がまばらにしか植わっていない林の中、それでも「はぐれないように」と、建人は握られた手に力を込める。
「ソーダさんはこのあたりに住んでいるんですか?」
「違うよー。建人と同じ、旅行に来てるだけ」
もう一度、今度は少し言葉を変えて尋ねると、ソーダはあっさりと建人の問いに答えてくれた。ソーダも旅行で訪れているということなら、彼が帰ってしまえば建人との繋がりはなくなってしまうだろう。それは当たり前のことだけれど、建人にはひどく寂しく感じられた。
「あとどのくらい、いるんですか?」
「んー……ヒミツ」
イタズラを企んでいるように笑うその顔は、建人よりも年下のようにも、はたまた建人の祖父と同じくらい大人のようにも見えた。不思議な表情だ。一つ、建人にもはっきりとわかるのは、これ以上食い下がっても彼は答えてくれないだろうということだけだ。
「ここにはよく来るんですか?」
「そうだなぁ、来たり来なかったり、かな」
やはりはぐらかそうとしている。その意図が透けて見えるあからさまなソーダの返答に、建人の頬はついつい膨らんでしまう。眉間にはシワも寄っていることだろう。
「僕のことはいいから、建人のこと教えてよ」
「でも、ソーダさんのこと、知りたいです」
じっと見上げれば、パチリと瞬きをしてから、少し困ったように眉を八の字に垂らす。けれども「建人が先」とだけ笑って、彼が譲ってくれることはなかった。
それから、建人は思いつくままに、ソーダに自分のことを話した。父と母のこと、祖父母のこと、祖父母の家には飛行機を乗り継いでいかなければならないこと、学校のこと。合間合間に、ソーダはさも興味があるというように相槌を打った。時には建人の話をより引き出すような質問をしたり、彼自身のことを語ったりもしていた。
聞き上手なソーダに乗せられるように建人は話し続け、気付けば、二人は建人の別荘の見えるギリギリの位置に立っていた。今日はここで何をするのだろうかと建人が期待しながら見上げると、ソーダは眩しいものを見るように目を細めている。
「建人は、いま幸せ?」
彼の視線の先を追ってその眼差しの原因を探す建人に、不安そうに揺れる声が投げ掛けられた。違和感を覚えて振り返った先では、ソーダが変わらない笑顔を浮かべている。気のせいだったのだろうか。建人は首を傾げながらも、頷き返す。
建人の首肯を見て、ソーダは安心したように、けれど少しだけ寂しそうに笑った。何故そんな顔で笑うのか、建人には理解できそうになかった。

◆ ◆ ◆

「今日もあの子と遊んだの?」
「うん」
「そう、仲良しになれたのね」
帽子でぺちゃんこになった建人の髪を梳かすように、建人の母はその頭を撫でる。そよ風に髪を揺らされるような触り方に、いつもなら建人の顔もふんわりと綻んでくる。けれど今日は母を説得するという一大ミッションがあるから、建人の表情は、自然と硬いものになってしまっていた。
「お母さん、あの、お願いがあります」
「あら、何かしら」
建人は手を強く握りしめすぎて汗まで滲んだ気がして、誤魔化すように開いて閉じてを繰り返す。一度制限されたものを緩めてもらうようにというお願いは、建人にとっては初めての交渉だ。
「明日、ソーダさんがきれいな場所を教えてくれるって……ついて行ってもいい?」
「このお家から見えないところなのね。二人で行くの?」
「うん」
確認したきり、母は思案げに頬に手を当ててから黙り込んでしまった。どうにも雲行きが怪しいから、建人は祈るような心持ちでその顔を見上げている。
「そうねぇ、お母さんもついて行っちゃダメかしら」
「え……」
思い返してみれば、ソーダは「二人だけで行こう」とも「秘密の場所」とも言わなかった。建人は母の許可がなければ遠出はできないから、当たり前かもしれないが。
母が引率になるなら、ソーダについて行くことにも許可が降りるのだろう。彼はきっと、建人の母が引率を提案することまで予想して、「話をするように」と約束させたのだろう。けれど。
「ダメ、です」
「じゃあ、二人だけで行くの?」
「あの、ソーダさんのお母さんが、ついて来てくれるって……」
「それなら安心ね」
言葉通りに安心したように笑う母に、建人は胃に重石を詰め込まれたように感じた。故意に嘘を吐くのは、建人の記憶にある限りは初めての悪事だ。じくじくと何かに責め立てられるような気持ちになりながら、建人は自室に戻った。
彼に禁止されたわけではないのだから、素直に母についてきてもらえば良かったのに。建人の脳内で、翼を背負った天使が納得のいっていないような不満そうな視線を向けてくる。
それでも、建人はソーダの教えてくれるきれいな場所を、彼と自分の間だけの秘密にしておきたかった。またもや脳内で、今度は尻尾と角を生やした悪魔がしたり顔で肩を組んでくる。
建人はどうしても、母に嘘を吐いてしまってでも、ソーダとの秘密を大事に仕舞い込んでおきたかった。それだけが、偽りようのない建人の本音だった。