水を得た

「……五条さんは、忙しそうですか」
「本人に聞けば?」
家入の指摘に、七海はぐうの音も出なかった。「五条は多忙だろうから」と言い訳をして、食事の誘いどころか連絡もできていないのは、七海が臆病になってしまっているからだ。誘って断られて、その理由が「忙しい」以外だったらと考えると、五条の顔を見ても言葉が続かなかった。
言い返してこない七海を見て、家入は興味を失くしたように手元のメニューに視線を移す。二人がいるのは五条とも来たことのある居酒屋で、彼曰く「硝子も気に入ったとこ」で、七海は家入に引き摺られるようにして来店した。五条への感情は煮詰まっても行動に移せなくて行き詰まった七海を見兼ねた、家入なりの気遣いだろうか。
「まあ、アイツは忙しそうにしてるよ。色々あったし」
「そうですか」
「でも寝る間も惜しむって程じゃないから、誰かと食事行くくらいの余裕はあるだろうけど」
「そう、ですか」
家入の、近況報告を装いながらも的確に突いてくる言葉に、七海は撃沈した。項垂れる七海の旋毛には、「一回くらい誘ってみれば?」なんていう、無責任な追撃が投げられる。ここ最近、自身の不甲斐なさを実感している七海にとっては耳が痛くなる言葉たちだった。
とうとう頭を抱えてしまった七海に、家入は笑いを押し殺しそこねたような溜息を吐く。七海は僅かばかり顔を上げて、そんな家入を恨めしげな目で見つめた。
「あの鈍感クズにはさ、きっちりはっきり言わなきゃ伝わんないって」
家入の声色は優しい。ニヤニヤとした、面白いものを見つけたというような笑顔でなければ、優しい先輩からの助言だと信じられたかもしれない。信じるには、家入の表情が真反対すぎたが。
七海は沈黙し、家入は再びメニューを捲り始め、二人の席には静寂が落ちる。その間を壊すようにして運ばれた料理に、テーブルの上が瞬く間に占領される。つまみばかりが並べられているのは、呑めという家入からの無言のメッセージだろうか。当人は「はい乾杯」とぞんざいに拍子を取ってからは、カパカパと七海を気に留めず呑み進めていく。
「――高専のとき」
唐突に、家入が手酌の手を止めた。彼女が率先して学生時代の思い出話をするのは滅多になく、もしかしたら、タイミングを窺っていたのかもしれない。珍しい家入の様子に、卵焼きを食べようとしていた七海の箸も止まる。
「アイツが、何か……急に君に告白したことあっただろ」
「っ……五条さんが、ですか」
「あのバカ以外に誰がいるの」
毒突く家入と話していると、七海の意識も高専まで巻き戻されていく気がした。七海にも覚えのある出来事だ。
「あれをけしかけたの、私達。私と、夏油」
「…………は?」
七海の中で、「流石にそんなことはしないだろう」と「この人達ならやりかねない」が同時に浮かぶ。そうしてギリギリのところで、後者に傾いた。日頃の行いのせいだろう。
「自覚もしてないのにウダウダ鬱陶しかったから、玉砕してこいって背中蹴っ飛ばしたんだよ」
蹴っ飛ばされただろう五条と話した記憶が、七海の中には確かにある。当時から負けず嫌いだった五条を乗せるのは、彼をよく知る夏油と家入にとっては朝飯前だっただろう。
「いや玉砕とは言ったけど、ちょっと突っつけばすぐにどうにかなると思ってたんだよ、私達は」
「でもねえ」と家入は言葉を区切り、家入は意味有りげに七海に視線を寄越した。その視線から逃れるように、七海は卵焼きの焦げ目を観察する。出汁をたっぷりと含んだ卵焼きは香りとともに食欲を刺激して、そう感じるほど、五条の作る卵焼きの味が気になってしまった。
「あんな顔してたのに、まさか君まで自覚がなかったなんて思わなくて」
似たようなことは、まさに五条が告白してきたときにも言われていた。それがどんな表情なのかは気になるが、この場で尋ねるのが藪蛇になることは予想できる。沈黙は金とばかりに、七海は大人しく口を噤んだ。
「とは言ってもね。無責任なことして悪かったなとは思ったんだ、一応ね」
「そこ、もっとしっかり反省してくれませんか」
「で、七海がそういうことで困ってたら、少しくらいは手助けしようって決めてたんだよ」
ついと、家入はスマホを取り出した。チマチマと中身を食べ終えた皿を重ねてスペースを確保して、スマホをテーブルに置いて操作をし始める。気怠げな雰囲気のまま、タップとスワイプを何回か繰り返してから、彼女は手を止めた。途端にコール音が鳴る。
『硝子、どしたの?』
スピーカーからは五条の声がした。
「今外で呑んでんだけど、暇なら一緒にどう?」
『……僕、任務なんだけど』
「出たってことはもう終わったんでしょ」
『……硝子の呑みに付き合うの面倒なんだよ』
五条は言葉でも声でも渋る素振りだが、その実、文句を言いながらも合流するのだろう。五条といえ家入には、やはり、腐れ縁だとか悪友だとかを超えた親密さを感じられる。
「いつもの店だから、五条」
『何?』
「絶対来いよ」
家入の念を押す声に、状況のわからないまま、五条は気安く承諾した。

「何で七海がいるの」
「わかってて来たんだろ、とりあえず座れば」
到着するなり、五条は七海を見て不満を零す。慣れた様子の家入に促された五条は、家入の隣の、七海の対面の椅子に座った。すかさず家入はメニューを渡す。
「電話のときは知らなかった」
「でも店に着いたときには気付いたでしょ」
バツが悪くなったのか、家入に向けられていた視線はメニューに逃げる。その間にも、家入は残り少なくなった酒を煽り、荷物を纏めて席を立った。
「え、帰っちゃうの」
「あとは二人で話し合え」
思い切りの良い一言を残して、家入は振り返らず店を出た。五条は呆気にとられたのか、その背中を見つめたまま黙り込む。七海も半ば呆然としながら、家入に持っていかれた伝票のほうに意識が割かれてしまった。
「……とりあえず、場所を変えませんか」
僅かな沈黙のあとの提案を、五条は拒否しなかった。

◆ ◆ ◆

「で、何で僕を呼び出したの?」
「話がしたいんです」
七海の提案に、五条は考え込んだ末に七海の自宅を選んだ。五条自身は高専の教員寮住まいだからという話だが、その返答を聞いて、七海は思わずガッツポーズをしたくなった。あわよくばという下心が漏れていないか、不安になる。
二人が対面するのは、七海の家のリビングのソファだ。リビングまで来たはいいが所在無さげに立ち尽くす五条を促して、やっと座らせることができた。七海のテリトリーを指定したのは五条のほうだが、リラックスするほどには警戒を解いていないらしい。当たり前だが。
「この間のこと? 伊地知に説明させたと思うけど」
「ああ、はい、それは大丈夫です。そうでなくて、その……」
七海は言葉に窮した。とにかく話がしたいということしか考えていなかったために、肝心の話題を用意していなかったのだ。そもそも避けられていたわけでもないのだから、高専でもどこでも、話す機会などいくらでもあった。ただ、改まって五条と対面すれば何かしらの進展があるのではないかと、七海はどこかで期待していたのかもしれない。
「食事、に……」
「食事ぃ? だったら、さっきの店ですりゃ良かっただろ」
五条の言い方は嫌味ったらしさを感じるが、その言い分は正論だ。もしかしたら、七海の主観で嫌味ったらしく聞こえるだけかもしれないが。
「いえ、食事に……何故、誘ってくれなくなったのか、と」
「あー……そっち?」
膝に頬杖をついた背筋を伸ばすように背もたれに預けて、五条は天井を仰ぐ。何か考え込んでいるらしいその目元は、包帯をしっかりと巻かれていて窺うことはできない。
と、ぐりんと音がしそうな勢いで五条が上体を起こし、七海に顔を向けた。その口元はキレイな三日月形に弧を描いている。
「ま、予想できてると思うけど、僕はオマエを囮にしようとしたわけ」
露悪的な物言いに、七海は眉をひそめる。そんな七海の反応も予想通りなのか、五条は上機嫌に身振り手振りを加えて語り出した。
「結果は大成功! 犯人は捕まったし、被害もピタリと止んだ! 解決して万々歳ってね」
五条は両手の手首から先だけを動かして、控えめな拍手をする。「わー」と歓声を上げながら場を盛り上げようとするその姿は、バラエティ番組の司会者にも見えた。共に盛り上がってくれる観客はこの場にはいないが。
拍手を続けても反応を返さない七海に飽きたのか、五条は惰性で動かしていた手をピタリと止めた。けれど手は合わせたまま、バツの悪さを表すように両手の指を擦る。
「事前に同意を得なかったのは……悪かったと思ってるよ」
五条の顔は擦り合わせている指先ばかり見ていて、一向に顔を上げようとしない。イタズラがバレた子供のような仕草だ。行動も言葉も、そんな可愛らしさを感じられる所業ではないが。
一瞬でも可愛さを見出してしまったことに惚れたよく目を自覚して、七海は溜息を吐く。五条の顔の向きは微動だにしないが、その肩は僅かに震えた。
「本当にそれだけですか?」
「何が?」
五条の声がほんの少し固くなった。彼がこちらの様子を窺っているだろうことは、七海も察しがついている。けれどそこから、七海の出方を窺ってからどうするつもりなのかまでは、予想がついていなかった。そのお陰で七海の言葉選びも慎重なものとなっていたが、意外と短気な七海の頭の片隅で、何かがふつりと切れた音がする。
「私と一緒にいたいと思ってなかったんですか?」
「……思ってない」
「私に、こんなにもアナタのことを好きにさせておいて、ですか」
「はっ?!」
五条の顔はほんのりどころでなく真っ赤に染まって、その赤さは首まで広がっている。熟れたリンゴだとかイチゴだとかを思わせる色をしていて、舐めたら甘そうに見えるほどだった。
七海は五条の座るソファに身を乗り出し、合わせられたその両手に、包み込むように自分の手を重ねた。五条の体温はじわじわと上がっていて、その熱につられるように、七海の手にも熱がこもる。汗ばみそうなほどだった。
「失礼します」
断りの言葉を口にして拒絶も承諾も届く前に、七海は五条の腕を伝うようにして、その顔に手を伸ばす。赤い頬は見た目の通りに熱い。後頭部まで腕を伸ばして目元を隠す包帯を解けば、重力に従って五条の顔の上を滑っていった。現れた二つの青は飽和しそうなほどの水分で潤んで、海をそのまま切り取ったようだ。
「……そんな顔して言っても、説得力ないですよ」
「うるせ。オマエが言うな」
きっと、あのときの七海もこんな顔をしていたのだろう。憎まれ口をどれだけ叩いても、確かに、こうも表情で語っていては意味がない。現に七海は五条を可愛く感じるばかりだ。

「な、ちょ……まて!!」
「…………何でですか」
犬に指示するような物言いに、七海はムッと眉間にシワを寄せる。五条の手で押さえつけるように顔を覆われているのも、拒絶されているようで不服だった。多少の、それこそキスくらいの進展なら許される雰囲気だったはずだ。つい数秒前までは。
「キスの一つや二つ、したって良いでしょう。何なんですか、箱入りですか」
「悪いかよ。高専入るまでずーっと箱入りだったんだから」
五条の肌はより赤くなっていて、七海を押し退けようと抵抗する手のひらも熱くなっている。五条の恥じらいが強くなるのを感じるほど、七海の心には余裕が生まれてくるようだった。あるいはこれが嗜虐心だろうか。
「それに……」
五条が口籠ると同時に手の力も弱まり、その機を逃さず、七海はベリッと音のしそうな勢いで剥がした。五条の視線は戸惑うように七海の口元を掠め、しかし目と目は合わさることなく逸らされた。伏せられた目元には睫毛が影を落としていて、色の濃くなった青は深海を覗き込んでいるようだ。赤い頬との対比が眩しい。
「オマエ、酒呑んだだろ。酔いそうだから……ヤダ」
七海は居酒屋での酒量に思考を巡らせた。ついでに五条の下戸の程度についても思考を飛ばした。
七海にとっては、呑んだうちにも入らない量だった。とんでもない度数の銘柄もなく、実際、今の七海はほろ酔いにすらなっていない。けれど自他ともに認める下戸の五条はどうかというと。
「……私はアルコールの類は大体好きなんですが」
「うん」
「今、初めて呑まなきゃ良かったと思いました」
心から後悔している声を出したら、言葉と声色のギャップが余程面白かったのか、五条は声を上げて笑った。