コイクチ

「なーなみクン、遊びましょっ!」
「これから任務なので無理です」
高専の廊下の反対側から、大袈裟に手を振りながら五条が近付いてきた。その斜め後ろには、小刻みに頭を下げながら伊地知が付き従っている。伊地知の視線は七海の背後の補助監督に向いていて、きっと補助監督同士、言葉にできない苦労をアイコンタクトで分かち合っているのだろう。
「え、今日はもうオフじゃなかったっけ」
「伊地知くん……」
「すみません!!」
今にも死にそうな悲壮感に溢れた叫び声を聞いて、七海は怯えさせすぎたと反省した。諸悪の根源ともいえる五条は我関せず、定位置としている七海の左肩に懐いている。距離の近さと服越しの体温に、七海の心臓は一際高く鳴った。
「オマエ、都合よく使われ過ぎじゃない? 嫌なことはちゃんと断らないと伝わらないよ?」
「……何度断っても理解する気のない人もいますしね」
「えーそんなひどい奴いるんだ。ところで七海、歓迎会じゃなくて昇級祝いしない?」
ニッと笑って空惚そらとぼける相変わらずな五条に無言を返し、七海は補助監督に向き直った。緊急の案件なんて、どこの業界でも大概は厄介極まりないものだ。これならウザ絡みが三割増しになったとしても、五条主催の歓迎会に招待されるほうが余程マシと言える。
「それで、状況はどうなっていますか」
「はい、監視していた三級呪霊が突如活性化し、等級の見直しの結果、二級相当とされたようです」
「わかりました。行くしかないようですね」
細く長い溜息を吐きながら、七海は先導する補助監督の後に続く。その肩には当たり前の顔をした五条が引っ付いたままで、二人の後ろを、伊地知が小走りについてくる。
「大変だねぇ、僕もついてこうか?」
「遠慮します。というか、アナタも仕事があるでしょう」
呪霊の祓除や生徒の指導及び引率なら、五条はこんな提案をしてこない。仕事があるとしたら、五条が煙たがっている上層部絡みのものだろう。煙たがっているのはあちらも同じだろうが。
「そうなんです。このあと、五条さんには会合が控えていて……」
「オイ伊地知、余計なこと言うなよ」
「すみません!」と再び縮み上がる伊地知からは、しかし、何としても五条を連れて行くという強い意志を感じた。本人にとっては不本意かもしれないが、流石は五条の圧に慣れている。
「そもそもさ、ボケ始めてるご老人方より、緊急任務に出る後輩を優先すべきでしょ」
優先と、ただ上層部との比較でしかなくとも五条に言われて、七海は心をくすぐられるようだった。その健全とは言い難い優越感が表に出てしまわないように、七海は口元に力を込めた。

「お二人は仲が宜しいんですね」
「まあ、高専の頃からの付き合いなので……」
既視感を覚える質問だった。奇しくも、場所は同じく高専所有車の中で、運転席に座るのはいつかと同じ補助監督で、違いは任務の帰りか行きかというだけだ。五条のあんな態度を二度も見られてしまえば、否定するのも難しい。
嵐のように七海の前に現れた五条は、去り際も嵐のようだった。泣き出しそうな伊地知に名前を呼ばれ、五条は渋々と、七海たちと進路を変えた。けれども別れ際、先日の喫茶店での世間話を引き合いに出して、七海にしっかりと忠告を残していく。そういうところがあるから、何だかんだ言っても敵わないなと七海は感じてしまうのだ。
「高専は寮生活で普通の高校より長いですから、付き合いも密になりがちですよね」
「……そうですね」
七海の返事は、肯定も否定もしない曖昧なものになってしまった。
高専の頃は、五条と七海が一対一で行動することは少なかった。生徒数の少なさから必然的に顔を合わせることはあったが、当時の五条は、七海など眼中にもなかっただろう。
五条が何かするとき、隣に選ぶのは必ず夏油だった。次点で家入だろうか。そういった優先順位をいくつか降りて、やっと七海の番になっていたのだ。復帰後に矢鱈と構ってくるのも、一番良い反応をするのが七海で、何より五条本人の寂しがりという性質のせいだ。七海でなければいけない理由はない。
「最近は食事にも行かれてるそうじゃないですか」
「……噂にでもなっていますか」
「あ、いえ、悪い噂ではないです。ただ五条術師は何かと目立ってしまう方なので」
弁明は苦笑交じりで、確かに、と七海は内心で同意する。
五条は目立つ。単純に人目を引く容姿をしているし、何より、呪術界においてはその出自も現在の地位も注目の的にならざるを得ない。
そのお陰か、五条自身は他人の視線にも言葉にも無関心だ。けれど周囲の、特に伊地知はそういった噂にも気を配る細やかさがあるから、彼が何も言わないなら問題は無いのだろう。
「高専だと遭遇することが多いので、偶然ですよ」
「はは、またまた。七海術師の任務の終わりを見計らっていらっしゃることも多いでしょう」
「まあ……あの人は構われたがりですから」
復帰後の七海に振られる任務は大概が同じ補助監督で、だから五条の奇行を多く目撃しているのだ。
「構われたがり、ですか」
「ええ、まあ……」
会話が途切れて、車内に沈黙が落ちる。真っ直ぐと前を向く補助監督の表情は、七海からは窺えない。何か気に障るようなことを言ってしまったのか、記憶を探っても七海には思い当たるものがなかった。
「五条術師のことをそう言えるのは、七海術師くらいかもしれませんね」
ひっそりと零されたその呟きからも、その心情を察することはできなかった。

◆ ◆ ◆

「すみません、休みの日にお呼び立てして……」
「いえ、仕方ないことですから」
今日、七海は一日休みのはずだった。呪術師に復帰してから貴重になってしまったそれをどう満喫しようか、七海は朝から浮き足立っていた。
そんな朗らかな朝に似つかわしくない、着信音。初期設定のままのそれに対して悪感情ばかり募るのは、これから良くないことが起こるだろうという経験則があるからだ。内容は案の定の緊急任務だった。朝食の用意をする前で良かったと自分を励ましながら、七海は手早く身支度を整えて自宅を後にする。
高専に辿り着くと、正面の門の前には見慣れた補助監督が立っていた。七海に気付くと、居住まいを正してから腰を直角に曲げる。申し訳無さそうに身を竦める彼を宥めてその背中を追いながら、七海は状況把握に努めた。
「それで、今回の呪霊は?」
「資料をお見せしたいので、ついてきてください」
硬い声音に感じた引っ掛かりを、七海は緊急事態だからと意識の外に放り出した。休みの人員を引っ張り出すほどの緊急事態は、そうそう慣れることではない。暫らくの間、七海は無言で足を動かし続けた。
先導する補助監督について、右手に土塀と左手に林の広がる、在学中には近寄ることもなかった敷地の奥まで進んだ。人の気配が急に薄くなったあたりで、七海の胸中に疑念が浮かぶ。正確に言えば、一旦は重要度を落とした疑問を流石に無視できなくなってしまった。
「……資料は何処にあるんですか?」
「五条術師は素晴らしい方だと思いませんか」
「は……?」
脈絡も何もあったものではない言葉だった。それはいつだかも聞いた覚えのある、陶酔して恍惚として、熱が飽和しそうな声色だ。言い知れない薄気味悪さが背筋を這う。陶然となった口調も何も、五条のことを言っているはずなのに、実在の人間でない、まるで神についてでも語っているようだ。
「あの方は強い、苛烈だけど公平で正しく在る、あの方がいれば術師の犠牲は無くなるんです」
男は倒れ込むように体をの字に折り曲げ、頭を抱える。不安定な体勢のまま、血が滲みそうな強さで頭を掻き毟った。その姿には狂気さえ感じる。
その言い分に同意するつもりはない、してはいけないとも思っているのに、七海は咄嗟に反論できなかった。男の尋常でない様子に気圧されたわけではない。のに、七海の口は縫い付けられたように閉じたままだ。
「あの方さえいれば大丈夫、だって徒人ではないんです。現人神で、あの方はだから大丈夫です、我々は庇護下にあれば良いんです」
五条一人で充分じゃないかと、七海も感じてしまったことがある。それぞれの発端が違っていても、ただ一人に押し付けることに変わりはない。それがどれ程理不尽なことかを今の七海は理解していて、そうして、自分の無力さを誰かのせいにする幼稚さも持ち合わせていない。
「ああ、七海術師ならわかりますよね」
「全く理解できませんね」
だから七海は、熱意だけはある支離滅裂な演説への感想を、包み隠さず告げた。七海の言葉を聞いた男は勢いよく振り返って、信じられないものを見るような顔を七海に向ける。しかし驚愕を塗り込んだような視線は一転して力を失くし、顔を俯かせた。
「そう、そうですか……」
目元も窺えないほど深く項垂れた男は、ボソボソと呟き続けている。いよいよ様子のおかしくなったその姿を見て、七海はそっと背中に吊るした鉈を握り込む。いつ襲い掛かってくるかもわからない男を前に、七海は音を立てないように注意を払いながら足を引いた。
「あの方の素晴らしさを理解できないなら、排除するしかないんです、仕方ない、残念です」
早口に捲し立てて、男は右腕を振りかぶる。その手には光るものが握られていた。振り上げた鉈が当たるより早く、その影が七海の眼前から消える。代わりに七海の視界を覆うように広がるのは青く煌めく残穢だ。
山なりに無防備に落ちた男の体は、落下地点よりさらに地面を引き摺られてから静止した。男の体を持ち上げた呪力の塊は瞬く間に霧散し、その欠片が七海の頬を撫でていく。
「やあやあ、間一髪だね」
「五条さん……」
左肩に乗せられた腕の先には、目元に包帯を巻いたままの五条が立っていた。一拍遅れて足音と大声が響き、二人の横を数人の補助監督が走り抜けていく。凶行に及んだ男は、拘束されて担架に乗せられて、引っ立てられていった。冷静なその振る舞いに、全ては予定調和だったのだろうと七海は理解した。理解はしたが納得はしていない。
「五条さん、これはどういうことですか」
「伊地知が説明するよ。僕これから忙しくなるから」
「ばいばーい」と大きく手を振る五条は、七海に食い下がる暇も与えないで立ち去った。それでも引き留めようとした七海の左手は届かず、力無く下ろすしかなかった。

◆ ◆ ◆

「最近、呪霊の等級を誤認し、任務を宛てがわれた術師の方が負傷するケースが増えていまして……」
「五条さんにも注意されましたね」
五条が去ったあと、立ち尽くす七海は伊地知に促されて、家入の元に向かっていた。高専の始業よりは少し早いが、この時間帯ならもう医務室にいるだろうという話だ。何なら徹夜で詰めている可能性もあった。
「そうなんです。しかし調査の結果、一部のケースは人為的なものだと判明したんです」
七海が言葉に詰まる間にも、伊地知は言葉を続ける。
「調査を続けたところ、被害に遭った術師は大なり小なり五条さんと関わりのあることが判明しました」
「それは、五条さんは」
「勿論ご存じです。調査は五条さんの指揮の元に行っていたので……」
そこで、伊地知は一旦言葉を切った。七海からは背中しか見えないが、言い辛そうにまごついた様子が見ているかのように察せられた。
「五条さんが私を囮に使え、と?」
「いえ、いえ……そんなことは決して……。結果的には、そう見える事態にはなりましたが……」
忙しなく頭を振る伊地知には、本当にそんなつもり・・・・・・はなかったのだろう。しかし、その上役のような位置に収まる五条が、どんな意図で動いていたかはわからない。思い返してみれば、五条の誘いに電話やメールは使われず、顔を合わせたときばかりだった。場所も大体は高専の中、敷地外では、七海の任務終わりで件の補助監督が同行しているときに限られていた。成る程、徹底している。
七海の沈黙をどう解釈したのか、伊地知はズレてもいない眼鏡を直し、その動揺をどうにか落ち着けようとしていた。相槌のように「すみません」と零す伊地知をどう宥めたものか、七海が頭を悩ませている間に、二人は医務室の前に到着する。伊地知が控えめなノックをすると、入室を促す家入の声が聞こえた。
「大変だったらしいね」
「家入さんもご存じだったんですか」
「はっきりと聞いたわけじゃないけど、五条はよく愚痴るから」
五条と家入の間には、夜蛾にも伊地知にも、ましてや七海にも入り込めない絆のようなものがある。五条が弱音を晒すように愚痴をこぼす相手は、今は家入しかいない。
世間話に盛り上がりもなく、七海は家入に勧められた椅子に座る。一通り、七海をスキャンするように手を翳して怪我のないことを確かめて、家入は頷きながら七海の向かいに腰掛けた。反転での診察のみでなく、どうやら問診もするらしい。伊地知が退室して二人きりになった医務室で、しかし不意に七海から視線を外した家入がゆっくりと口を開く。
「今回の件で、学生への被害はまだ出てなかった」
「そうですか」
「でも、いつ学生が狙われてもおかしくない状態だったから、五条も焦ってたとは思うよ」
「……そうですか」
「フォローするつもりはないけど」と全く説得力のない弁明をする家入に、七海はどう返事をするか悩んでしまう。今回の件についての説明も、他の何もかも、五条本人の口から聞きたかった。七海は、ただ五条に会いたかった。