右足を一歩前に出すが、果たして歩けているのかもわからない。頭上も足元も、遥か遠くの地平線にあたりそうなところも黒一色で、平衡感覚も滅茶苦茶になりそうだった。
それでも右足と左足を交互に出して、おそらくは前に向かって進んでいく。そうすると、目の前に空間の境目があった。
境目の向こう側は光が満ちて、誰かの部屋の中のようだ。薄い膜一枚を隔てた明るさに、五条は目を細めた。五条は目元に包帯を巻いているから、意味のある行動ではない。ただの反射だ。
きっと、向こう側が七海の夢の中だ。五条は推測する。
今まで五条が歩いてきたのは術式による余剰空間のようなもので、境目の向こう側からが、本当の七海の夢の中だ。本当の、とはいっても術式によって作り出されたものだが。
夢と五条のいる空間とを隔てる薄い膜に、五条はそっと触れた。想像したような反発はなく、けれど押し込むほどに撓んで、破れる様子はない。
これが破れたらどうなるのだろうかと、五条は自身の顎を掴む。一番可能性が高いのは、この夢の空間が壊れること、それは即ち七海にも悪影響が出かねない状況だ。慎重にならなければいけない。
しかし夢の外側からでは出来ることもなく、五条は途方に暮れる。こんなことをしている間にも、もしかしたら七海は衰弱していっているかもしれない。それでも、五条にはここからの脱出方法もわからなくて、とうとう進退窮まってしまった。
そのとき、向こう側に変化があった。七海が現れたのだ。夢の中にある七海の意識が、七海の姿になって現れた。
何が起ころうというのか、五条は固唾をのんで見守る。
七海は手紙のようなものを持っていた。厳重に封のなされたそれを丁寧に開いて、七海は中身を黙読する。途端、七海はよろめいて、背後のソファに崩れ落ちるように座り込んだ。そのまま項垂れて、小さく震えているようにも見える。
咄嗟に、五条は薄い膜を思い切り押しやった。勢いの強さにぼよんと弾かれる。
泣いているのだろうか。七海には泣いてほしくない。五条の手の届かないところに行ってしまっていいから、とにかく幸せであってほしかった。笑っていてほしかった。
五条の手はいつの間にか薄い膜を通り抜けて、つんのめるように、五条は七海の夢の中にいた。あたりを見回した五条が事態を把握するより早く、どこもかしこも光に包まれていく。
そうして、明転。
◆ ◆ ◆
五条は廃病院の前に立ち尽くしていた。オカルトマニアくらいしか喜ばなさそうな建物を目の前に、五条は何が起きたのか理解できずに混乱した。
おそらく、五条は未だ七海の夢の中だ。明転を区切りとして、七海の夢は場面が移ったか、次の夢を開始させたか。きっとそういうことなのだろう。
開け放たれた自動ドアを抜けて、見知った呪力が近付いてくる。一仕事終えたらしい七海が疲れ切った様子で、それでもしっかりとした足取りで、廃病院から出てきた。五条に気付いた七海が駆け寄ってきて、それに対して片手を上げてゆるく応える。
不思議とと言うべきか、やはりと言うべきか、五条の口からここが夢の中だということは告げられなかった。どうしたものかと思案しながら、七海といつもの軽口の応酬を続ける。知らないはずの七海の任務について知っているのも、ここが夢の中だからと考えれば納得するしかない。
七海にウザ絡みしながら肩も組んで、と、脇腹に何かが当たる。何か、は五条の無下限もすり抜けて衣服を貫いて、脇腹を刺した。熱いと思ったときには膝から力が抜けて、無様にも倒れ伏す。その音で異変に気付いた七海が振り返った。
五条を刺した呪霊は、七海によって呆気なく祓われた。ここは七海の夢の中だから七海のイメージが反映されているはずで、この程度の呪霊に遅れを取ると思われているのは心外だと声の限りに叫びたい。けれど五条の口から溢れるのは赤い血ばかりで、僕こんなに弱くないんだけど、という五条の不満は血に紛れて消えた。
その代わり、五条は気力を振り絞った。嫌に現実味のある夢のせいで、久しぶりに死にかけの体を味わってしまっている。脇腹は痛いし熱いし、口の中は鉄臭いし、普通に辛い。
七海は五条が口を開くのを見て黙り込む。その表情は泣きそうに歪んでいて、こんな状態でなければ揶揄ってしまいたいくらい、情けないものだった。
「これは、夢だから」
「安心しろ」という言葉までは音にならず、五条は全身から力が抜けていくのを感じた。
明転。
◆ ◆ ◆
それから、五条は最初を含めて、計七回死んだ。
中々にバリエーション豊かで五条は飽きがこなかったが、回数を重ねるごとに、七海は憔悴しているように見えた。七海は真面目で優しいから、尊敬していなくても学生時代の先輩が死んだら辛いのだろう。難儀なことだ。
などと気の毒がっていたら、今度は七海に首を絞められた。あまりの展開に五条の思考は停止し、体ばかりが反射として酸素を求める。陸に打ち上げられた魚のように口をパクパクと開閉する姿は、想像するだけでもみっともないものだった。
そんな五条を見ても、七海の表情筋は一ミリも動かなかった。素晴らしい鉄面皮だ。
段々と込められていく力に、喉が潰されるのが先か骨が折れるのが先かと気持ちだけは呑気に考えていたら、唐突に手を離された。新鮮な空気に肺がびっくりして咳き込んで、生理的な涙を浮かべながら、五条は元凶たる七海を見上げる。その顔はやっぱり変化がなくて、どんな感情でいるのかはさっぱりとわからない。
「何すんだよ」
「いえ」
五条としては首を絞めてきた理由を知りたかったのだが、七海の返事は何とも茫洋としたものだった。まるで迷子が当てもなく母親を探すような、途方に暮れたような声だ。
「アナタでも、首が絞まれば苦しいんだな、と思いまして」
何を当然のことを言っているのか。という五条のちょっとしたイラつきは、おそらく七海には伝わっていない。五条はそのことに追加でイラついた。
当然ながら、最強といえども五条は生物学的にはただの人間なので、首を絞められたら苦しい。当然ながら。
「そりゃね、人間だから」
絞められていた違和感がまだ残っている気がして、五条は喉を擦る。押し出されるようにまた一つ咳が出た。
「そうです。アナタは、人間です」
七海が、ひどく苦しそうな声を絞り出す。五条は相槌を打つことに徹した。
「なのに、まるで兵器のように扱われて、かと思ったら神様みたいに遠ざけられて、挙げ句、持て余して切り捨てようとする」
訥々と語られる内容に、五条は今更何も感じない。それは五条が「五条悟」として在る以上はどうしようもないことだ。
それに、五条だってそのイメージや立ち位置を利用することもあるからお互い様だろう。
「仕方ないよ」
「何で、諦めるんですか……」
五条も諦めているわけではない。納得して、受け容れているだけだ。
五条としては、気を許した相手から人間扱いされていれば満足だ。それ以外の有象無象から何と言われようと思われようと、気にする価値もない。
人間扱いしてほしい相手の中には、七海も入っているのだが。
「諦めてるわけじゃないって。ただ、本当に、仕方ないよなって感じなだけだから」
言い募っても、七海が納得する様子はない。眉間にはシワが刻まれたままだ。
「私は、五条さんがただの人間だと知っています」
「最強だけどね」
「そうですけど、同じ人間のアナタを蔑ろにされて、しかもそれをアナタが許しているのを見ると、腹が立ちます」
「え〜、僕って愛されてるぅ」
キャッとわざとらしく高い声を出すと、七海の眉間のシワがますます深くなる。マッチぐらいなら挟めるだろうか。
五条の態度で七海は機嫌が下降したのか、強い力で頬を掴まれた。唇が突き出される形になる。
「蔑ろにするくらいなら私にください」
「え、プロポーズ?」
「違います」
割と即答だった。もっと乗ってくれても良いのではないかと、五条としては少し不満に思う。
「アナタは人気者ですから、生きているままじゃダメでしょう。キレイに殺して、処理して、飾って、毎日お世話もします」
七海のアブナイ性癖を垣間見てしまった気分になる。夢の間の記憶が消えなかったら結構な大事故になると思うのだが、聞かなかったフリをしたほうが良いだろうか。
いつもなら何だかんだ揶揄っていただろう。けれど。
「僕はオマエのこと、結構好きだから、どうしてもって言うなら考えてやらないでもないけど」
七海の顔が今にも泣き出しそうに歪んでいるから、そんな気も霧散してしまう。
「オマエは、僕がお人形さんになってもいいの?」
「どうしたい?」と、まるで七海に決定権を委ねるように言葉を切る。
「私は、アナタが消費されなくなるなら、それで」
「消費なんてされてねーよ。出来るからやってるだけ」
とうとう涙が滲んできた七海の眦を拭う。七海は自分が泣いたことに気付いていなかったようで、涙の感触に驚いた顔をしていた。
「もし本当に消費されてるなら、オマエが補えよ」
「……私には」
「出来ませんとか言ったらマジビンタだからな」
先手を取られて黙り込んだ七海を見て、五条は得意気に笑って見せた。
「オマエは固く考えすぎ。もっと緩くていいんだよ」
「アナタが緩過ぎるのでは?」
調子が戻ってきた七海の頬を、五条は包み込むように両手を添える。顔を固定された七海と七海を見上げる五条は、暫し、見つめ合った。
七海の目には涙の光はもう無くて、ずっと浮かんでいた曇りも薄れている。もう一押しで、覚醒できるだろうか。
「オマエはお人形さんでも良いかもしれないけど、僕は一緒にいるなら生きてるオマエが良いんだよ」
五条は優しく静かな声で、教え子たちにするように諭した。七海は五条の言葉を聞いて、何かに驚いたように目を瞬かせる。説得は成功したのだろうか。成功しているといい。
五条は柄にもないと自嘲しながら、望みを託す。
「だからさっさと目を覚ませ」
起きろ。目を覚ませ。オマエの居場所はここじゃない。オマエを待っている人間はいくらでもいる。そんな沢山の言葉を、五条は七海に伸ばした右手に込めた。
「これは、夢なんだから」
デコピンを一つお見舞いして、明転。
◆ ◆ ◆
五条に遅れて覚醒した七海は、すぐには事態の把握ができないようだった。五条よりも長く深く夢の中にいた影響だろう。
いつもよりぼんやりとしている七海に、五条は畳み掛けるように事件の顛末を説明して、有耶無耶にする作戦に出た。途中までは上手くいっていた。けれど七海が、どうしても無視できないことを言い出すから、五条は一瞬だけ作戦を忘れそうになった。「大切な人」とはどういうことだ。
気力で持ち直した五条は、あからさまな言い訳を捲し立てて逃げようとする。しかし七海の握力と圧の前に敗北した。第一線で活躍し続けている五条よりも筋力があるのはどうかと思う。
五条にしては珍しく、思わず溜息が出た。
「オマエが見てた悪夢は、他者の術式と呪力に干渉された夢だ」
七海と繋いだままの右手を引き寄せて、そこから伸びる七海の左手を見つめる。七海の精神的負担を思えば、七海の夢の中に早々に入れたのは運が良かったとしか言い様がない。
五条が夢に入れた経緯を説明しても、七海は「はぁ」と曖昧な返事をするだけだ。理解は出来ていないのだろう。当の五条も理解出来ていないのだから仕方ない。
「そしたら、なんか僕ばっかり何回も死ぬから」
「すみません……」
「謝んなくていいから」
謝ってほしいわけではない。五条は七海の謝罪を遮った。
それでも、何度となく七海の夢の中で死んでいって、もしやそこまで憎まれているのかと疑ってしまったのは嘘ではない。そのことを七海に知られないように、五条は顔を見られないように俯いた。
「五条さん、私は「大切な人が亡くなる夢」の中で、アナタが亡くなったんです」
七海が言葉を重ねる。
「そんなんわかるわけねーだろ。死ぬんだぞ? 嫌われてるって思ったわ」
「それが悪夢ですから。何とも思ってない、まして嫌いな相手が亡くなったのでは、そこまで苦しまないでしょう」
「わかんねーだろ。七海は優しいから」
高専在学中も、呪術師として出戻ったあとでも、七海は優しかった。優しすぎて、この地獄においては生きにくいだろうと思えるほどだった。
「私が優しいと感じるなら、それはアナタが相手だからです」
「ハァ?」
「私は、アナタだから、優しくしたんです」
「ハァ〜〜〜?」
叫び出さなかった自分は褒められてもいいはずだと、五条は自画自賛する。それほどに衝撃的な発言だった。ともすれば、「大切な人」という言葉よりも衝撃が大きかったかもしれない。
「何言ってんだ」とか、「そんなウソ信じねーぞ」とかいう思いを、五条は言葉でなく顔で表す。けれど、七海は冗談でもそういった言葉を口にしない性格だということを、五条はよく知っていた。だからこれは悪足掻きのようなものだ。
「オマエ、高専のときから塩対応じゃねーか」
「おや、私は「優しい」のでは?」
七海がわざとらしく小首を傾げて言うものだから、五条は思わずしどろもどろになってしまった。
さっきから、やけに七海の圧が強い。
「ならば、今、ハッキリと言葉にしても?」
王手だ。チェックメイトだ。トドメの一撃が、五条に向かって真っ直ぐと放たれた。
いくら五条が恋愛事には疎いといったって、七海が五条に優しい理由なんて、既に察しはついていた。言葉にしてもらう必要などなくて、むしろ逃げ道を塞がれるばかりで、五条はほとほと参ってしまう。
「それ、は……また今度、で」
「そうですか、残念です。五条さんはどうにも私の言葉を信用していないようなので、みっちり、しっかり、教え込みたかったのですが……」
残念で仕方ない、とでも言うように七海が微笑む。
限界だった。ただただ顔が熱くて頭が茹だるようで、五条は、恥ずかしさだとか何だとかが体に目一杯詰め込まれてしまった気分だ。
耐えきれず、大袈裟な音を立てて五条は立ち上がった。
「僕、硝子呼んでくるから! オマエは安静にしてろよ!」
当の家入がいれば小言をもらいそうな声量で告げて、その勢いに任せて五条は部屋を出た。いつになく荒々しい足音は、夜蛾に聞かれれば窘められそうなほどだ。
頭から爪先まで湯気が出そうなほどに熱くて、けれど最後に見せた七海の余裕の表情を思い出せば、体温は上がるばかりだ。
これから、七海と五条の間にあった何かが形を変えていくだろうことを、五条は理解した。