イン・ザ・ナイトメア 第一夜

覚醒、したのち、七海は飛び跳ねるように起き上がった。蹴飛ばした掛け布団は、どこに飛んでいったかもわからない。
ドクドクドクと、心臓が耳の中にあるような鼓動の煩さが、七海が無事に覚醒できたことを示している。
夢特有の状況の曖昧さと不可思議な現象が際立っていたが、五条の言葉は紛れもない事実だった。即ち、七海は呪われている。
そうして、五条が続けて語った呪いの概要も、そのまま五条に言われたことだった。
七海がかかった呪いは「死に至るものでもない」が、「ちょっとしんどい」ことになるらしい。笑い含みに言われたことはまだ根に持っているし、あの場で手が出なかったことは今でも後悔している。一発殴るぐらい許されただろうに。
手早く朝食をとって身支度を整えて、最後に腕時計をはめる。今日の任務は朝からだ。

背の高いビルより田畑のほうが多い郊外にある廃病院が、七海の今日の任務地だ。あたり一面に戸建てばかりが揃う中、総合病院だというその大きな施設は一際目立っていた。
広く取られた駐車場までぐるりと囲う柵の中、呪霊が出るという事前知識のせいか、廃病院は一層陰鬱に立ちはだかるように見える。心做しか、病院を取り巻く空気が暗くて重い。
柵の出入り口に車を横付けしてもらって、七海は素早く敷地内に入る。帳は既に下ろしてあって、敷地内は朝にも関わらず夜中の薄暗さを湛えている。
地下に一階、地上に四階まである規模の病院が廃病院となった理由は、七海にはわからない。資料には載っていなかった。
けれど周辺では、様々な憶測が噂話となって広まってしまっているらしい。入院中に亡くなった患者の霊が夜な夜な現れるだとか、医療ミスで訴えられて担当医が首を吊ったとか。廃病院に付き物ともいえる話から、院長が愛人に貢いで経営が立ちいかなくなったなどの、イロモノといえそうな話まである。
兎にも角にも、注目の的となってしまった廃病院は人々の負の感情を集めに集め、呪霊が発生するようになった。ということらしい。
一つの指向性に沿っていない、場所に引き寄せられただけの呪霊に等級の高いものは少ない。その代わりに数が多くなりがちだから、七海との相性は良くない。ハッキリ言って苦手な部類だ。
けれど、万年人手不足の呪術界で適材適所を唱えるのは贅沢というもので。一介の呪術師でしかない七海は、粛々と任務をこなすしかない。
地下から最上階まで二往復したところで、やっと呪霊の気配がなくなった。最後にもう一往復重ねて、呪霊を祓除しきれたことを確認していく。
疲労困憊となりながらも、七海は堂々と正面玄関から外に出ることにした。何に対してかもわからないが、もはや意地だ。
開きっ放しの自動ドアの向こう側、真正面に、七海を出迎えるように五条が立っていた。驚いた七海はたたらを踏んで、すぐさま我に返って五条に駆け寄る。
五条は七海の慌てぶりを前にしても、いつも通りの表情の読めない笑みを浮かべている。だけでなく、右手を掲げて呑気に振るから、緊急事態でないと察した七海の足は緩んだ。
「やぁ」
「……どうしたんですか」
「いやー、何か苦手そうなタイプを相手にしてるって聞いてさぁ」
「笑いに来た、と?」
「そこまで言ってないだろ。卑屈かよ」
ニヤニヤと軽薄極まる笑顔を向ける五条に対し、七海もいつもの調子を取り戻す。その七海の相槌に、拗ねたように唇を尖らせた五条は、しかし次の瞬間には笑顔に戻る。
「僕、次の任務まで時間空いちゃってさ。飯行こうよ」
「任務はまだ終わっていません。遠慮します」
「家に帰るまでが遠足ですよって? かったいこと言うなよなぁ」
ブゥブゥと口で言いながら肩を組んでくる五条は、鬱陶しい。しかし五条に連れられていく店にハズレはなく、その点では、七海の心は大きく揺れていた。
報告書は後日でも構わないと言われているから、ここで五条の誘いに乗って、何か不都合があるわけではない。しかし。

ドサリと、何かが落ちる音がした。
肩に乗っていた五条の腕はいつの間にかなくなっていて、その持ち主は隣で倒れている。倒れた五条を挟んで向かいに、一体の呪霊がいた。五条は脇腹を抑え、その手は血で汚れている。
何が起こったかは理解できた。しかし納得ができない。拒絶反応でも起こしたのか、上手く呑み込めない。
五条が呪霊に負けるなど。しかもこんな、せいぜい三級、二級にも遠く及ばない格下の呪霊の前に敗れるなんて。
七海は咄嗟に腕を振った。
何とか込められた呪力と、過たずに7と3の隙を突いた呪具により、呪霊は消滅した。その程度の呪霊だった。
七海は五条の隣に跪いて、その上体を抱き起こす。脇腹からは血が溢れ続け、比例するように、五条の肌からは血の気が引いていく。作り物のような色だ。
反転術式は回っていないのか。それよりも補助監督に連絡して。思考回路はぐちゃぐちゃと絡まり、七海の混乱は収まらない。煩い。誰かが叫んでいるが静かにしてほしい、と思えば、その誰かは七海自身だった。黙りたいのに、口を開けば五条の名前を叫ぶしかできない。
脳内で発せられる指示を一つも実行できない。こんなにも、思考さえもままならないのは、七海の記憶にある限りは初めてのことだった。
五条が、ゆっくりと口を開く。七海は押し黙った。
じわりじわりと五条は口を開いていき、一つ、息を吸う。どんな小さな声も聞き逃さないよう、七海は自然と呼吸を止めた。
カサついたように見える唇の隙間から、場違いに白く輝く歯が覗き、
「これは、夢だから」
暗転。