全身にかいた汗はじっとりと服を張り付かせて体を冷やし、なのに、全力疾走したあとのような呼吸の速さはまだ収まらない。前のめりに突っ伏して、七海は言葉にし難い激情が過ぎ去るのを待った。
夢の詳細は覚えていない。いつも通りの任務に思えたけれど、よくよく思い返してみれば、小さな違和感がそこかしこにあった。
しかしそんなことより、強く記憶に焼き付いているのは、赤だ。ほとんどが五条の黒い制服に吸われていたが、吸いきれなくて地面に広がっていく、赤。血の色、生命の色、五条の命が消えていくことを示していた、色だ。
鮮やかな赤が段々と黒ずんで、五条の制服に同化していく、ところを見届けてはいない。が、触れたところから七海の体温を奪い、なのに温まらない五条の体と、脇腹から流れ続ける生ぬるい液体の感触は忘れられそうにない。
実際に体験したわけではないのに、吐き気がするほど、リアリティがあった。思い出そうとするだけで喉に酸っぱいものが込み上げてくる気がして、七海は緩く頭を振って考えるのをやめた。
最初の夢は事実だった。五条が目の前で光りながら消えるなんてことは起きていないが、それ以外は七海自身に起こっていることだ。
自覚もないし思い当たるフシもないが、七海は呪われている、らしい。「死にはしないがしんどくなる」という五条の話が本当なら、今の悪夢も、しんどいことにカウントされるのだろうか。
五条を特別に慕っているわけではないが、身近な先輩が目の前で亡くなるというのは、七海にとっては大変しんどいことだった。あの赤は、もう脳裏に焼き付いてしまっている。
七海はもう一度頭を振って、気持ちを切り替えた。切り替えるようにと、自身に言い聞かせた。
ようやく落ち着いた呼吸とともに、七海の気分もだいぶ波が収まった。それまでに掛かった時間は数秒か、数分か、七海の体感としては十分以上は経っていた。
平静さを取り戻すと、空腹に気が付いた。持ち主の精神状態を余所に、七海の胃は通常運転をしているらしい。
食堂を覗く前に身支度を整えようとドアノブに手をかけた途端、七海は外側に勢いよく引っ張られた。タイミングよく誰かが七海の部屋を訪ねたらしい。もっとも、ノックもしない闖入者など、七海には一人しか思いつかないが。
「なんだ、寝坊かよ」
「ノックくらいしてください……」
「遅刻してる奴を呼びに来たヤサシーセンパイに対して言うことか?」
「……あ」
そういえば、今日は五条に遊びに誘われていた。
七海の心底から驚いた顔を見て毒気を抜かれたのか、五条はそれ以上の煽りはせずに部屋を後にした。出ていく際には「三分な」としっかり釘を差されはしたが。
朝食を泣く泣く諦めて、七海は身支度の最短記録を更新して、ついでに正門までの自己ベストも更新した。正門に背中を預けて待っていた五条は息を切らす七海に一瞥をくれただけで、さっさと先を歩く。心持ち呼吸を長く深くしながら、七海も置いていかれないように小走りで追いかける。
バスに乗って街の端まで辿り着いて、五条が最初に向かったのは喫茶店だった。都心の喧騒からはかけ離れた自然あふれる住宅街の、さらに片隅にあるその店は、高専から一番近い飲食店だ。昔ながらという外観に沿った内装は落ち着いていて、七海はいつも長居したくなる居心地の良さを感じている。
「オマエ、飯食べてないだろ。何か食べとけ」
五条にメニューを差し出されて、七海は、目の前の人物が本当に五条悟なのかを疑った。サングラスから覗く青い瞳は紛れもない六眼だったが、それを忘れるくらいの衝撃が、七海を襲ったのだ。五条も七海の驚愕に気付いたらしく、「さっさと頼め」と苛立たしげにメニューを指で叩いた。
腹が満ちれば余裕が生まれるもので、それからの七海は、五条との散策を楽しんでいた。消耗品を買い足したいと言い出した五条に、荷物持ちをさせられるのかと危惧するも杞憂に終わり、逆にアレコレと理由をつけて奢られる始末だ。
はて本当にコレは五条悟なのだろうか、と本日何度目かの疑問を抱きながら、七海は五条の後を追う。
時刻は夕方、あたりは夕陽ですっかりとオレンジ色に染まっていた。あと少しもしたら、空の天辺から帳が下りるように薄闇が広がり始めるだろう。
「そろそろ帰るか」
そう言って五条は消えた。次いで七海の耳は何かがぶつかる大きな音を捉えた。
五条は消えていなかった。弾き飛ばされたのだ。
二人がいたのは交差点の角の端、一番車道に近いところに立っていた。そこに信号無視の車が走ってきて、五条は轢かれた。何が起こったのかを理解してしまった七海の呼吸は、今朝の起き抜けよりもひどく荒くなった。
足も手も動かない中、錆びついたようにぎこちない動きで、七海は首を巡らせた。その先に、五条はいた。
仰向けに倒れる五条の呼吸は、恐慌状態にある七海よりもずっと浅く早くて、五条の怪我の具合を察するには充分だった。茫洋と何もない中空を眺めていた五条は、視線に気付いたのか、ゆっくりと七海に顔を向ける。
口からも血が溢れて、紙のように白い顔色と、反比例するようにいつもより紅い唇が小さく動いて、
「これは、夢だから」
暗転。