七海が起きたとき、その左手は五条が握っていた。いつから握っていたのか、七海の左手と五条の右手の表面温度は、ピッタリと同じになっている。
一瞬状況が呑み込めなくて、七海はパチパチと瞬きを繰り返した。七海の覚醒にすぐさま気付いた五条が、七海の顔を覗き込む。
「……覚えてます」
「そ。じゃあ、あの呪詛師、というか利用されていた女の子だけど」
五条の手は、七海の覚醒を確認してすぐに離れた。七海は少しだけ残念に思う。
五条は、七海に儀式の動画を見せられたときに、その少女の素性を察することができたらしい。軽快に喋り出す。
さる呪術師一族の分家から、誘拐された子供がいた。その子供の両親には呪術師としての素質がなく、その一家の何代か前から呪術との関わりもなかった。
そんな事情から呪術界で大きく取り沙汰されることはなく、誘拐事件は迷宮入りとなる。それが四年ほど前のことだ。少女が祈祷師として動き始めたのは、高専で調査した限りではニ年前からとされている。
その一族が後生大事に抱えていた術式は、夢を交換するというものだ。術式の対象は言語的コミュニケーションが取れる相手に限られるが、声に出して聞かされた夢を貯めて、夢を聞かせてきた相手を含めた自分以外の誰かに移すことができるらしい。
呪霊に対しては効果の薄い術式だが、今回の件で実証されたように、人間相手には有効たり得る。政財界などでは重宝されていた一族らしい。
少女に「お母さん」と呼ばれていた女性こそが、少女を誘拐した呪詛師だ。術師の素質の有無に鼻が利く件の呪詛師は、少女の術式を見抜き、誘拐して利用していたようだ。胸糞の悪い話だが。
呪詛師は周到に、マッチポンプまがいのことをして、安定した顧客の呼び込みに成功していたらしい。
まずは「見たい夢を見せる呪い師」として名を売り、夢見が悪いと訪れた客の悪夢を聞き出した。これで客の悪夢は手元に残り、客は悪夢に悩まされなくなる。
そうして貯めた悪夢を、無差別にバラ撒いたらしい。そのうちの何割かは呪詛師の団体まで辿り着き、新たな客となったそうだ。
「それで、悪夢を移すときに悪い人には罰を与えるって教えこんでたんだと」
「なるほど……」
少女は七海に呪いを差し向けるとき、「バツをあたえなきゃ」と呟いた。その理由は、母親と思っていた呪詛師の洗脳に因るものだったのだろう。
「オマエが見た夢は、あの女の子にオマエが相談した内容、だろ?」
「そうだと思います」
あのとき、少女の中で呪力が爆発するように膨れ上がった。けれど少女が膨大な呪力の扱いに長けていなかったおかげで、真正面から呪いを受けた七海も覚醒できたらしい。
七海に当てそこねた呪力は散り散りになり、周りにも結構な被害が出たそうだ。不幸中の幸いなのは、あの場にいたのが高専側の人員ばかりだったということか。そうでなければ、被害はもっと大きなものになっていただろう。
「……私が見た悪夢は「大切な人が亡くなる」というものでした。それで、夢の中で亡くなっていたのは、アナタです」
「……は?」
パカリと音がしそうなほどに口を開いたままの、間の抜けた表情を、五条が晒している。珍しく驚いているようだ。
「本人に言うのもどうかと思いますが、五条さんが亡くなっていました。八回ほど」
「え、や、それは良いケド。それって、嫌いすぎて死んでるとかじゃなくて?」
「ちゃんと聞いてましたか? 大切な人と言ってるでしょう」
「た……でも! オマエ、僕の首絞めただろ⁉」
「は?」
今度は七海が間抜け面を晒す番だった。五条の口走ったことが呑み込めない。どうして七海の見た夢の内容を知っているのか。
当の五条は、やらかしたと顔に書いてある。ようだった。
「五条さん」
「あ、あー僕これから任務だった危ない危ない忘れるところだった! じゃ、いっっっだ‼」
五条は叫び声を上げたあと、痛みに呻いて黙り込む。五条が痛みに叫んだ原因は、その右手、をリンゴを潰せる握力で握りしめる七海の左手にあった。加減はしている。
「この状況で逃げられるとでも?」
「わかった、わかったから手離して。お願い」
「お願い」という言葉の稚さに、思わず七海の左手から力が抜ける。五条の右手を離すことはしなかったが。
力が弱まっても離れることのない七海の左手を恨めしそうに眺めてから、五条は大きく息を吐いた。肺の中身を全部出し切るような溜息だった。
「オマエが見てた悪夢は、他者の術式と呪力に干渉された夢だ。普通の夢と違う。だから夢渡りの術を使わなくても、オマエの夢に介入できるんじゃないかって思ったんだ」
七海に握られたままの右手を、七海ごと引き寄せるように、五条は胸の前まで持っていく。釣られた七海は、右手をついて上半身を起こした。
五条はグッと手を開いて七海の手との間に隙間を作ると、逆に七海の手を握り込んでピッタリと密着させた。七海の指と指の間に五条の指が収まった、いわゆる恋人繋ぎだ。くっついた左手と右手から七海の動揺が伝わってしまいそうで、七海は努めて呼吸を深く大きくした。
「それで、こう、呼吸を合わせるように呪力を合わせていったら、オマエの夢の中に入れた」
「……はぁ」
「入れた」と言われても、七海には、それがどんな感覚のことかはわからない。こんな軽い調子で報告されることではないのだろう、という想像しかできない。
「……そしたら、なんか僕ばっかり何回も死ぬから」
「すみません……」
「謝んなくていいから」
五条は遮るように七海の謝辞を突っぱねて、七海から顔を隠すように項垂れる。項垂れる五条など、七海は現実で初めて見たかもしれない。
七海の中の五条のイメージは、常に前を向いて先頭を切って進んでいくだけだ。五条が力無く背を丸める姿を見て、七海はドキリとする。悪夢の中の五条は七海の想像だと思いこんでいたのだが、もしかしたらもしかするのかもしれない。
ならば、最後のあの言葉は。
「だから、僕は嫌われてるか恨まれてるか……そもそも、僕が入ったからおかしくなっただけ」
「五条さん」
沈黙に耐えられないとでもいうように口を動かす五条を、七海は遮った。五条がゆっくりと顔を上げる。その目は、見えていたなら迷子になった子供のような色を宿していたことだろう。
「私は「大切な人が亡くなる夢」の中で、アナタが亡くなったんです」
「……そんなんわかるわけねーだろ。死ぬんだぞ? 嫌われてるって思ったわ」
「それが悪夢ですから。何とも思ってない、まして嫌いな相手が亡くなったのでは、そこまで苦しまないでしょう」
「わかんねーだろ。七海は優しいから……」
五条の中での七海のイメージはそうなのだろう。確かに七海は優しいのかもしれない。けれどそれは懐に入れた人間、つまりは身内限定の優しさだ。もっと言えば、五条に向ける優しさは五条専用のものだ。
「私が優しいと感じるなら、それはアナタが相手だからです」
「ハァ?」
「私は、アナタだから、優しくしたんです」
「ハァ〜〜〜?」
五条は口をひん曲げて不満を表す。顔を傾けて、目元が見えたなら斜め下から睨み上げてメンチを切っていただろう。
普通なら可愛らしさは感じないだろう仕草だ。けれど五条の照れ隠しだと考えれば、途端に可愛らしく思えてくる。七海は自分の現金さが可笑しくなった。
「オマエ、高専のときから塩対応じゃねーか」
「おや、私は「優しい」のでは?」
「それは、社会人になって……処世術とか学んだからだろ」
絶対に七海の言葉を聞き入れようとしない五条の頑なさに、七海は閉口する。とはいっても、頬は緩んだままだ。
「ならば、今、ハッキリと言葉にしても?」
笑顔で圧を与えることを意識する。五条のほうが得意としていそうなことだが、七海だとて、それこそ社会人として生き抜くうちにできるようになった威圧の方法だ。その七海の笑顔に、五条が怯んだ。
力の緩んでいた七海の左手から、跳ねるように五条の右手が逃げていく。けれど怯んでいる五条からは逃げるという選択肢が消えているようで、七海は左手を自身の前に引き戻した。
「それ、は……また今度、で」
「そうですか、残念です。五条さんはどうにも私の言葉を信用していないようなので、みっちり、しっかり、教え込みたかったのですが……」
七海の言葉に、五条は椅子を蹴飛ばすように立ち上がる。頬も耳も真っ赤に染まっていた。
「僕、硝子呼んでくるから! オマエは安静にしてろよ!」
目の前の七海と場所への配慮を忘れた声量で一息に言って、五条は部屋を出ていった。その足音は五条の動揺を表すかのように荒く、ドアは叩きつけるように閉められた。
五条にしては随分とお粗末な言い訳だ。そんなところからも五条の狼狽えっぷりが窺えて、七海は口角が上がるのを自覚した。
今はまだ、五条への追撃は控えていよう。五条の赤く熟れた頬を見れば、脈の有無など明白で、だから今はまだ。
五条はそのうち、いやでも七海の言葉を信用せざるを得なくなるので。