イン・ザ・ナイトメア 第三夜

は、と七海は詰めていた息を吐いた。夢見が悪いにも程がある。
高専在学中、夢の中のように、五条と穏やかに遊びに行った記憶はない。けれどまるで思い出を振り返るような現実味を伴った夢に、七海はより疲弊する。うたた寝であんな悪夢ばかりを見ていては、気が滅入ってしまう。
ふ、とあたりを見回す。七海が座っているのは柔らかい陽光が差し込む、病院の待合室の隅だった。
夢があんまりにも鮮明だったせいで、ここが何処だか、むしろ今も夢の中ではないかと混乱してしまう。しかし何をしに病院に来たのだったか。
「今日も来たの?」
聞き慣れた声に、思わず七海は振り返る。その先にいたのは五条だ。簡素な入院着に、左手から伸びた点滴スタンドを引き連れて、呆れたような苦笑いを浮かべている、五条その人だ。
五条は不治の病に冒されている。
進行性だという病の詳細は教えられていないが、反転術式ではどうにもならないものらしい。あとは健康であるほど進行が早いだとか、七海の知る情報はそれくらいだ。
七海の腰掛けるソファの隣に座る五条は、体調が悪そうには見えない。足取りはしっかりしているし咳き込んだりもしないし、顔色も変わらず窶れたようにも見えず、目の焦点もきっちりと定まっている。なのに、今日にでも、長くともひと月ほどで亡くなってしまうというのだ。
俄には信じがたい。病状を説明する五条は、常日頃の飄々とした態度を崩さなかったから、余計に。
けれどこうして、入院着に身を包み左手に点滴を刺す五条を目の当たりにすると、全てが事実であると思い知らされる。
七海は心のどこかで、五条が七海より先に亡くなることはないだろうとタカを括っていたのかもしれない。あるいは信じ込んでいたのだろう。今、その思い込みは崩れ去り、七海の胸中には嵐が訪れていた。
「病室に戻りましょう。ここは冷えます」
「……仕方ないなぁ」
穏やかに笑う五条を、七海はあと何回見られるのだろうか。

病室に促す七海を引き留めて、五条はいそいそと売店に向かった。店内の甘味を根こそぎ持っていくように大量に買い込み、見かねた七海はパンパンに詰められた袋を片方引き受けた。
「備蓄食料ですか」
「まぁそれもあるけど、病院食って少ないからね」
オートの無下限を切るつもりのないらしい五条にとって、確かに提供される食事だけでは足りないだろう。主にエネルギー源が。
お見舞いに何か持ってこようか。提案しようとして、七海の喉からは詰まったように声が出なかった。五条の退院の可能性が低いことを認めるようで、どうしても言い出せなかった。
それに、平然と「要らない」などと断られたら、それこそどういう反応を返せばいいのかわからない。五条自身が退院できないことを認めたように聞こえるから、七海はそんな答えを聞きたくなかった。
「融通してもらえないんですか?」
「まー、五条の名前を使えば出来るかもしれないけど……」
乗り気ではないらしい。
「入院してるなんて、外に漏れたらオオゴトだからね」
「家の奴らも全員は信用できないしなぁ」と呑気に続ける五条のその肩には、病身になってなお、世界の命運などという重荷が乗せられている。そうして五条自身、それに関しては疑問を持つことがない。
歯痒いと思ってしまった。その重荷を肩代わりできないことも。重荷を背負わされていることを、五条が苦痛と感じていないことにも。
七海は何もできない。五条本人が望んでいなく、そもそも五条が自分の役割として受け止めてしまっているから。
五条は、七海が高専に入学したときから強かった。程なくして当代随一の強さを手にし、完璧となったように見えた。あの頃の七海には、そう見えた。
けれど五条は当時も今も、七海の一つ上の先輩でしかなく、当然ながらただの人間だ。全知全能の神ではない。それなのに、全てを五条に押し付けるしかない現状が、七海は歯痒い。
「オマエ、何か変なこと考えてるだろ」
「考えていません」
「いーや、考えてるね!」
唐突に、五条が七海の顔に手を伸ばす。真っ直ぐに突き出された人差し指は、鼻筋を辿るように通り過ぎて七海の眉間に到達した。そこをギュウと押し込まれて、七海は、眉間に力が入っていたことに気付いた。
そのままマッサージをするように親指も添えて、五条の左手が離れていく素振りはない。
「こんなシワ作っちゃって、あんまり考えすぎるとハゲるよ」
「やめてください」
小さな絶望の種を大きく育てる言葉に、七海は眉間を揉む五条の手を引き剥がす。七海の態度の何がツボだったのか、五条は声を上げて笑った。
「オマエは真面目だから無理だろうけど、責任なんか感じなくていいんだよ」
「……何の話ですか」
「だから、神経質すぎって話」
五条の話の通じなさに、七海の眉間のシワは復活する。五条の手は七海の眉間に再び伸びることはなく、小さく咳き込む口元を隠す。隙間から見えたのは、もはや見慣れた気にもなる赤だ。
「大丈夫、何ともないから」
「そんなわけ無いでしょう。ナースコールを――」
五条の背後に伸ばそうとした手を、音がしそうな勢いで掴まれる。病人とは思えない強さだ。
「これは、夢だから」
暗転。