イン・ザ・ナイトメア 第八夜

触れるか触れないかの距離で撫でると、人肌の温かさが伝わる。撫でる動きを止めてグッと力を込めると、皮膚の下の脈動が感じられ、筋肉の反発が強くなる。
段々と、赤みが増す五条の顔を、馬乗りになって七海は見つめた。酸素を求めた五条の口が空振りに終わるのを見届けて、七海は両の手から力を抜く。途端、流れ込んでくる空気に、五条は顔を横向けて咳き込んだ。
あまりにも長く強く咳き込むものだから、七海は何だか申し訳ない気持ちになってしまった。背中を擦ろうにも、五条の背中は地面と仲良くしていて難しい。気休めに、七海は五条の頬を撫でた。
五条は生理的な涙で濡れた目を薄く開いて、睨めつけるように七海を見上げる。
「何すんだよ」
「いえ……」
七海は返答に窮した。どれのことを訊かれているのかがわからない。
そもそも、五条が拒絶しようと思えば、七海は五条に触れられなくなる。なのに大人しく七海に組み敷かれて、剰え首を絞められている理由を、七海のほうこそ問いたかった。
「アナタでも、首が絞まれば苦しいんだな、と思いまして」
「そりゃね、人間だから」
狭まった気道を戻すように、五条はまた一つ咳き込んだ。七海の手から解放された自身の首筋、喉仏の少し上あたりを撫でて、調子を確かめているようだ。
こうして五条だけを見つめていると、七海は今の状況を忘れてしまいそうだった。虚勢かもしれないが、それほど、五条は余裕に満ちている。
「そうです。アナタは、人間です」
「うん」
「なのに、まるで兵器のように扱われて、かと思ったら神様みたいに遠ざけられて、挙げ句、持て余して切り捨てようとする」
「仕方ないよ」
「何で、諦めるんですか……」
七海ばかりが憤って、肝心の五条はこの態度だ。五条の諦めたような言動を目にすると、七海は、まるで見当違いなことに腹を立てているのではないかと不安になる。全て自己満足だというのは承知の上だが。
「諦めてるわけじゃないって。ただ、本当に、仕方ないよなって感じなだけだから」
それを諦めというのではないだろうか。それこそが、五条が何にも期待していないことの証拠となるのではないだろうか。
「私は、五条さんがただの人間だと知っています」
「最強だけどね」
「そうですけど、同じ人間のアナタを蔑ろにされて、しかもそれをアナタが許しているのを見ると、腹が立ちます」
「え〜、僕って愛されてるぅ」
七海は五条の頬を、ムニッと音が聞こえそうな勢いでつまむ。少し黙ってほしかった。
「蔑ろにするくらいなら私にください」
「え、プロポーズ?」
「違います」
今度は唇の先をつまむ。七海としては真面目な話をしているつもりなのに、五条は茶化してばかりいる。不服だ。
「アナタは人気者ですから、生きているままじゃダメでしょう。キレイに殺して、処理して、飾って、毎日お世話もします」
七海は夢想する。
七海の家の一番陽当りの良い南向きの窓際、座り心地のいい椅子を吟味して触り心地のいいクッションを厳選した上に、五条が座っている。七海も時々は日向ぼっこをするお気に入りの場所だが、五条が来るなら、明け渡すのも吝かではない。
甘いものを食べて頬を緩める顔も見られないし、取り留めのない話題を喋り続ける声も聞けないけれど。けれど、七海の知らないどこかで、五条の人間としての部分がぞんざいな扱いを受けることがなくなるなら。
「僕はオマエのこと、結構好きだから、どうしてもって言うなら考えてやらないでもないけど」
五条の手が、七海の頬に伸びる。口の端から顎の付け根まで、五条の手は、撫でるように何度も往復した。
「オマエは、僕がお人形さんになってもいいの?」
「……私は、アナタが消費されなくなるなら、それで」
「消費なんてされてねーよ。出来るからやってるだけ」
五条は、人差し指の背を七海の目尻に押し付ける。濡れた感触がして、七海は自分が泣いていることに気付いた。
「もし本当に消費されてるなら、オマエが補えよ」
「……私には」
「出来ませんとか言ったらマジビンタだからな」
言葉を封じられて、七海は閉口するしかない。七海のそんな表情を見て、五条はイタズラが成功したとでも言うように笑った。
「オマエは固く考えすぎ。もっと緩くていいんだよ」
「アナタが緩過ぎるのでは?」
五条は七海の涙を拭った手と反対の手も伸ばして、両手で七海の頬を挟み込む。七海は首から上を動かせなくなって、じっと見つめてくる五条の目を見つめ返した。
青かった。そうして眩しかった。七海が影を落としてもなお、五条の瞳には光が瞬いているように見えた。
「オマエはお人形さんでも良いかもしれないけど、僕は一緒にいるなら生きてるオマエが良いんだよ」
五条を殺してしまったら、この目に宿る光は二度と見られないのだ。それでは物足りない。そんな簡単なことに、七海は今気付いた。
「だからさっさと目を覚ませ」
五条は右手をデコピンの形にして、七海の額に近付ける。
「これは、夢なんだから」
暗転。