五条が殉職するような事態になったら、その前に七海はこの世にいないだろう、と。ある意味、それは七海の拠り所だった。
呪術界から離れて一般企業に就職した今も、心のどこかで五条は生きているだろうと思っていた。
七海の目には、半球状の不自然な夜空が、はっきりと映っていた。馴染みのあるそのドームは任務の際に下ろす帳で、となれば、中では祓除が行われているのだろう。
その中に足を踏み入れたのは、単なる好奇心だった。あるいは感傷か。その周囲に、見知った残穢を感じた気がしたから。
弾かれたら諦めるので、と心の中で誰にともなく言い訳をして、七海は帳の境界を踏みつける。あっさりと、七海の足先半分が、帳の中に入った。
その事実に驚きながらも、七海は足を進めていった。場所はオフィス街の裏路地、仕事帰りの七海はいつものスーツだから、帳が消えても即通報とはならないだろう。
混み入った路地を、本人の瞳のように青い残穢を追って歩いていった。段々と濃くなる鉄錆の臭いに、七海の心は少しずつ落ち着きを失っていく。
任務対象は呪詛師だったのだろう。自分に言い聞かせるように、七海は何度も心の中で呟いた。
ビルとビルの合間、角を突き合わせたビルによって丁字路になったそこに、五条はいた。脇腹を抑えてビルの外壁に背を預ける姿は、初めて見るはずなのに、どこかで見たことがあるように錯覚した。
五条に近寄る七海の足取りはフラフラとして覚束なく、まるで雲の上でも歩いているように現実味がなかった。最後には倒れ込むように、投げ出された五条の脚の隣に膝をついた。
「五条さん……」
カラカラに乾いた喉を叱咤して、七海は何とか声を絞り出す。けれど五条の返事はない。
記憶にあるよりも分厚い肩を揺すって、もう一度、その名前を呼ぶ。それでも、五条は身動ぎもしない。せめて目を開けてくれと祈るように、七海は何度も、ただ五条の名前を呼んだ。
そうして何回目か何十回目か、七海にはもうわからないくらいに呼んだとき、五条がゆっくりと瞼を上げた。
「……オマエ、何で、ここにいるの」
掠れて途切れ途切れの声は聞き取りづらいが、声を出せたというだけでも、七海には涙が滲むほどの奇跡に感じられた。それ程までに、五条の顔色は白く、出血は多く見えた。
「そんなことより、助けは呼んでいるんですか。高専には」
「連絡、すんな」
五条は脇腹を抑えていた手を解いて、スマホに伸ばした七海の手を阻む。五条の血に塗れた掌はぬるついて、七海はその生温かい感触に慄いた。
それより何より、聞き捨てならないことを、五条は言った。
「五条さん、アナタ、死ぬつもりですか……!」
「僕を刺した、呪詛師は……高専所有の、呪具を使った」
そう言ったきり、目を伏せた五条の荒い呼吸音が響く。七海はといえば、五条の言葉に、凍りついたように思考が止まってしまっていた。
「今日の任務、は、高専からの、だから」
五条のさらなる情報の開示により、七海は五条の言わんとすることを理解できてしまった。
呪詛師の仕業、ではない。高専に指示を出せる上位組織が、あるいは話に聞く総監部が、五条を暗殺しようと企てた、ということなのだろう。
総監部が、五条のことを煙たがっているということは伝え聞いていた。五条を処刑できるほどの罪状がないこと、五条の代わりが務まる人材がいないことによって手出しができないというのは、七海の耳にも届くほど知れ渡っていた。
だからといって。
「何故、そんな……」
「さー……ね。僕も、驚き」
五条は笑おうとしたのだろう。しかし、もうそんな力も残っていないのか、五条の口角は痙攣したように震えるだけだ。
五条の口からは、上層部への恨み言も、死にたくないという恐怖も、漏れることはない。ただ静かに凪いで、自身の運命を受け容れるかのようだ。
それはまるで、七海の、七海以外の、五条を気に掛ける人間の思いが届いていないことを見せつけられているかのようだ。七海は自身の中で渦巻く感情が何なのか、名前を付けられなかった。
一言、五条が、その身に受けた仕打ちを嘆いてくれたなら、七海の心は落ち着いただろうか。
「だめだよ」
無意識のうちに五条に伸びていた手は、寸でのところで、五条自身に阻まれた。
「間違えたら、だめだよ」
七海を見つめる五条の目は、五条の負った怪我を忘れさせるほどに、力に満ち溢れている。
「大丈夫、オマエが起きたら、全部、元通りだ」
五条の手から力が抜ける。重力に従って、五条の手も、それに押さえられていた七海の手も地面に落ちた。
「これは、夢だから」
暗転。