紫色の爪 1

「オニーサンさ、変なもの見えてるでしょ」
今いるここが自分の店でなかったら、怪しい宗教勧誘として無視できたのに。溜息を我慢して、有馬ありまは鉄の意志で営業スマイルを維持した。
場所は有馬の働く花屋、その店内奥のレジ前だ。敷地も規模も小さい店だから有馬は店長であり店員であり、そうして、意味不明な質問をしてきたのは初対面の客だった。心情的には客とカウントするのに抵抗があるが。
ズカズカと入店した彼は店内の花には目もくれず有馬の前に立ち、そして最初の一言がそれ・・だった。何と言うか、有馬としては宇宙人と相対した気分だ。
笑顔を張り付けた有馬が絶句していても、目の前の客は変わらずにニコニコと、人によっては軽薄そうに見える笑みを崩さない。きっと自分の顔の良さを充分に理解しているのだろう、そう思ってしまうのは有馬の僻みだけではないはずだ。何せ彼はイケメンなので。
濃い色のサングラスで目元はわからないが、それ以外の鼻筋、口元、頬や顎の形、どれをとっても整っている。加えてバランス良く収まっている。道を歩けば誰もが振り返り、うっとりと見惚れてしまいそうな――と言っても過言ではなさそうなほどだった。
「……どういうことでしょうか」
苦し紛れに質問で返せば、男はアハッと声を出して笑う。それがまた嫌味なほどにサマになっていた。
「何の話とか、訊かないんだねえ」
「やっぱ見えてるでしょ」と不穏なことを呟きながら、男はゴソゴソとポケットを漁る。有馬の目は彼の挙動でなく、俯きがちになった拍子に覗いたその目元に釘付けになった。睫毛が瞬きのたびに音を立てそうな長さと密度をしている。
「僕、あそこで働いてるんだけど」
「あそこ」と男が指差すのはショーウィンドウの向こう、四階建ての雑居ビルがある辺りだ。一階は喫茶店、二階は歯医者、三階と四階は空室が続いている。スとレジ上に差し出されたのは一枚の名刺だ。よく見る長方形の白い紙に文字が並んでいるだけの、男のイメージには似合わない無愛想な見た目だ。
「怪奇現象調査所、助手……?」
有馬は印字されている文字を読み上げる。一つ一つの単語としては理解できるが、それが一纏まりになると、途端に意味が理解できなくなった。正確には理解したくないだけかもしれない。
「三階に新しく出来たんだよ」
「はぁ……」
「オニーサンみたいな悩みを抱える人にはピッタリだからさ、ちょっと覗いてみてよ」
助手と名乗る男はニッコリと、やはり胡散臭く見える笑顔を携えている。この場を切り抜けることに目標を設定した有馬は、曖昧な返事に留めた。言質を取られないためだ。
「ところで、ドアのところの青い花が欲しいんだけど……」
「この人、ちゃんと客なんだ」という有馬の失礼な感想は、辛うじて声にならなかった。

嵐のような客を捌き終えて、有馬はぐったりとレジ台に肘をついた。相手をしたのは自称助手の一人だけだったのに、何人もの接客をこなしたような疲労感でいっぱいだった。今日はもう閉店してしまおうか。
暴れただとか無茶振りされただとか、そんなことは一切なかった。ただただ話が長かった、それだけだ。きっと飲み会で上司に絡まれたサラリーマンというのはあんな気持ちになるのだろう。
彼の話は、良く言えば愛に溢れていた。つまりは惚気だ。お陰で、有馬は会ったことも見たこともない所長・・に対して、やたらと詳しくなってしまった。「所長」という単語ももう一生分は聞いた気がするし、正直言ってお腹いっぱいだ。
助手が選んだのはデルフィニウムを何本か、それと白いカスミソウと黄色に染められたカスミソウだ。デルフィニウムは色の濃さをバラつかせてほしいという指定付きだった。
所長アイツは青色が好きなんだ。というか僕の……うん、僕が好きだから、青色も好きになったんだって』
紛うことなく惚気だ。有馬は砂糖の塊を差し出された気分だった。相手が好きな色だから自分もその色を好きになるなんて、しかもそれを相手も喜んでいるなんて。相思相愛で何よりです、くらいしか返し様がない。
レジ台の上に置きっ放しになっていた名刺を、有馬は顔の前に掲げる。裏にも表にも住所の記載はなく、果たして名刺として機能するのかも微妙なところだ。
それから有馬の視線はショーウィンドウの外、雑居ビルの建つあたりに移る。助手のプレゼンによって野次馬心は刺激されてしまったが、それだけで訪れるには勇気のいる名前の事務所だ。そもそも自分は、怪奇現象そういったものを信じているのだろうか。
考えても詮無いことを溜息一つで打ち切って、有馬はレジ台に懐いていた上体を起こした。その視界に、床に落ちた小さな紫色が映り込む。上げかけた悲鳴を呑み込んで目を凝らせば、それは近くに置いてあるアスターの花弁だ。見間違いにホッとしながら、有馬は濃い紫色の花弁を拾い上げる。
紫色の爪――正しくは、爪を紫色に塗った両手の指先。それが、近頃の有馬を悩ませる幻覚・・だった。