しかし事情が変わった。それは、可愛らしく小動物系に見えて精神面はエキセントリックな女性と付き合って価値観の相違で別れてから、だ。
指が見えるようになった。
淡い紫色のネイルは彼女のお気に入りだったから、有馬の記憶にしっかりと残っている。筋張っていないほっそりとした女性の指は、だから有馬には彼女のものとしか思えなかった。それとなく共通の知人に尋ねたら彼女は元気にしているらしく、そこだけは安心しているが。
そんな合計十本の指が、目の前に、視界の端に、現れるのだ。あるときはドアの隙間から、あるときは棚の影に、またあるときは床から直接生えていたこともある。
それらは常に同じ形をしている。手の甲を向かい合わせにして、指の付け根に近い部分で曲げて力を込めているような形だ。まるで、隙間に手を押し込んで無理矢理こじ開けようとしているような。
そんなオカルト現象を体験し始めて、早半年ほどが経つ。慣れたかといえば、そんなことは全くない。誰に言っても信じてもらえないだろうという諦めから、幻覚だと自分に言い聞かせて放置していたに過ぎない。その選択を有馬は後悔しているが。
仰向けに寝転んだベッドの上、有馬の見詰める天井から、指が生えていた。暗闇の中でも薄っすらと光を放つような白い肌と、その先のつるりとした紫色。それは記憶にある彼女の指と寸分違わず同じだ。心做しか震えているように見えるのは、力を込めているからだろうか。ギ、と家鳴りがしたような気がして、彼は飛び上がりそうなほどの恐怖に襲われた。なのに体は動かない。
せめて目を逸らしたい。しかしそうした途端に、あの指は動き出すのではないか。ミシミシと天井と自身の指の骨を軋ませながら隙間をこじ開け、ぬるりと這い出てくるのではないか。そうして、全体が現れてしまうのではないか。
そんな妄想が止まらなくて、ガチガチと奥歯が鳴るのを感じながら、有馬はそれを睨み続けた。
カーテン越しの朝日で、有馬は目を覚ました。いつの間にか寝落ちていたらしい。天井を見渡しても室内灯があるだけで、あの小さな紫色はどこにも見当たらなかった。助かったという安堵より先に、また来るのだろうかという恐怖に震えた。
グッショリと寝汗をかいて強張った体を叱咤して、適当に纏めた郵便物の山を漁る。確か捨てていなかったはずと縋る気持ちで探し出したのは、住所すら書いていない白と黒のシンプルな名刺だ。まるでそれが最後の希望だとでもいうように、有馬は名刺を握りしめた。