紫色の爪 3

臨時休業にした店をあとにして、有馬はすぐ目の前の雑居ビルに駆け込んだ。何かに追われているように怯える有馬を迎えたのは、昨日と変わらない間延びした助手の声だったが。
声と同じ軽い調子で開かれたドアの先には、物語の探偵事務所のような空間が広がっていた。大きな窓の両脇にはガラス窓の棚があり、それらを背にして重厚そうなデスクと、中央には応接セットまであった。
その応接セットの革張りのソファに招かれて、紅茶を飲む。やっと一息つけた有馬は、事務所に足を踏み入れたときから気になっていたことを尋ねた。
「あの、そちらの方は……」
ソファと紅茶を勧めて対面に腰掛けた助手の隣に、有馬が事務所に入ってきたときから、その人は居た。「怪奇現象調査所」という名前も相俟って、まるで来訪を予期していたかのように感じてしまった。顔の左半分を眼帯で覆ってガタイも良くて眉間にシワを寄せた厳しい表情で、そのスジの人間ですと言われたほうが納得しそうだ。
「初めまして、この調査所の所長をしています」
差し出された名刺は見覚えのある白い長方形で、印字された内の二文字が違うだけだった。住所も連絡先も、本名すら載っていない。ここまで諸々を隠されると、やはり怪しい事務所なのではないかという疑念が募る。それも今更の話だが。
「……個人情報の関係で『本名を明かさない』という規則がありまして」
「だから君も名前言わなくて良いからね。適当にAくんとか呼ぶから」
訝しむ有馬に対して所長と助手が弁明するが、胡散臭さが増しただけだった。しかしここしか頼る先がないのも事実だから疑念はグッと呑み込んだ。
「それで、相談内容はなんですか?」
所長の静かな声に、昨晩の恐怖が蘇って有馬は喉が干涸らびるような焦りを覚えた。堰を切ったように、何かに急かされるように、ここ半年ほどの幻覚・・を話す。指を見ること、それが隙間をこじ開けて近付こうとしているように感じること。それから躊躇いながらも、その指が別れた彼女のものに似ているということも。
一通り話し終えて酷使した喉を労っていると、微動だにしなかった所長が立ち上がろうとする。それを目線一つで制した助手が立ち上がり、代わりに背後のデスクに向かった。
まさに阿吽の呼吸、まるで熟年夫婦のようなとまで考えて、有馬の脳裏には助手と交わした会話が過る。なるほど、二人はまるで・・・ではなく――と続きそうになった下世話な勘繰りを振り払うため、有馬はそっと頬の内側を噛んだ。そんな葛藤を他所に、所長が徐ろに口を開く。
「どうやら、未練があるようです」
「未練、ですか」
彼女の性格とあまりにも似つかわしくない単語に、有馬はオウム返しに聞き返す。サッパリアッサリスーパードライを地で行くような女性だったのだ。
「それは、その……彼女が、ですか?」
「そ」
「そっちもあるだろうけど、君も、だよ」
探しものを終えた助手が、所長の言葉を遮って喋り始める。所長は眉間のシワを三割増しにしたものの、口を挟むことはない。静観の構えだ。
「君の彼女さんはまじないに手を出したみたい」
「まじない……」
「って言っても効果なんて無いに等しい、弱っちいものなんだよね。普通なら」
「……言い方」
呆れたような所長の横槍に「事実だろ」とぶっきらぼうに端的に言い返して、助手は有馬に向き直る。
「でも君のほうにも未練があったから結びついて、指を見るようになった。そんなところかな」
「取り敢えず、これを持っていてください」
一段落したらしい話の隙間を縫って、所長はテーブルの上に指を滑らせる。助手が探し出して持ってきた何かが転がって、チリンと小さく音を鳴らす。鈴だ。真っ白い鈴に、赤い紐で花の結び目の装飾が施された、いかにも縁結びだとかに効きそうな鈴だった。未練をどうこうするのと真逆の効果がありそうに見える。お守りだろうか。
「これは……」
「指をちょっと見えなくする効果があるよ」
「ちょっと……ですか」
「ええ、一生分の効果はありませんね」
「だから、まあ、大元をどうにかするってのも、アリだと思うよ。僕は」
茶目っ気たっぷりにウインクをされて、有馬は乾いた笑いを零す。彼女と別れた原因は価値観の相違で、どちらかが悪いというものではない。仮に悪いとするなら両方で、きっと話し合いとか気遣いとかが足りなかったのだろう。
連絡をするべきだろうかと迷いながら指を伸ばすと、応えるように鈴が鳴った。