死者との電話 3

制服と通学鞄のまま、晃生は線路沿いの道を歩く。
平日の朝、明らかに学生とわかる格好で歩いていても補導されないのは、人通りのない道だからだろう。時々すれ違ったり追い抜いていったりする電車を見送りながら、晃生はとぼとぼと足を動かす。
晃生はお化けが怖かった。いや今でも怖い。得体の知れない見えない感じられない脅威、それらが闇に潜んで襲いかかってきそうで、怖くて仕方なかった。見えない自分では、太刀打ちできるはずもないから。そうして暗がりに怯える晃生をいつも守ってくれたのは兄だった。
前を向いていた視線を足元に移して、晃生は鬱々とした気持ちを溜息に乗せる。今は何を考えていても兄に繋がってしまう。
『そもそもお化けの擬態だったり――』
助手の言葉が蘇って、晃生は鞄の持ち手を握り締める。そんな簡単に行くものではないと、薄々気付いてはいた。けれど他に縋れるものもないから、あやふやで真偽も定かでない噂に飛びつくしかないのだ。
それからまた更に歩いて、ようやく大衆食堂の看板が見えてきた。思わず晃生の足が止まる。塗装はボロボロで蔦が覆い隠そうとしているが、辛うじて「食堂」の二文字の形はわかる。その看板の斜め下、向かって左側に件の公衆電話がある。左右を見回して誰もいないことを確かめてから、晃生はゆっくりと公衆電話に近寄った。
外観は、ただのボロボロになった電話ボックスだ。至る所の金属が錆びて、プラスチックもガラスも割れている。しかし不思議と、中を蔦が這っているだとか、蜘蛛の巣があるだとかはない。電話ボックスの中には、不気味なほどに生き物の気配が感じられなかった。まるで時が止まっているようだ。怖じ気づきながらも、晃生は手を伸ばす。
「はい、ストーップ」
突然の声に晃生は肩を跳ねさせた。その拍子に伸ばしていた手も縮こまる。反射的に振り返った先には、予想と違って白髪の男性が立っていた。
「やっぱり来ちゃったねえ」
聞き覚えのある声と見覚えのあるサングラスに、晃生の中で助手と目の前の男性が繋がる。隣には所長もいた。
子供を宥めるような助手の声に居心地の悪さを感じて、晃生は視線を足元に落とす。こんな態度を取っていてはますます子供扱いされるだろうに。
「君は、どうしても話したい人がいるんだね」
「……はい」
何を話すのかも定まっていないが、とにかく兄の声を聞きたいというのが晃生の本音だ。子供が意地を張っているだけに思えるだろうとは、晃生自身も理解している。
「僕の目って特別製で」
しかし予想に反して、助手は馬鹿にする様子もなく、突拍子もないことを言い出した。隣に立つ所長は溜息を一つ吐くだけで、助手の言動への慣れが窺える。
突然の話題転換に、晃生は呆気にとられて相槌もままならなかった。しかし「この通り、ね」と晒されたその目を見て、無意識に感嘆の溜息が零れる。
青、だ。世界中の全ての青を詰め込んだような、どれとも言い表しにくい宝石のような青色が、そこにあった。一秒ごとに色を変える様は万華鏡のようで、ひと時も目を離せない。いや離したくないと感じてしまうほどだ。
「だから断言できるけど、あれは君の求める相手じゃない。ちょっと物真似が上手いだけのお化けだよ」
ぼうと見惚れる晃生の耳に、助手の冷徹な声が届く。心臓がキュッと凍えるような、喉を圧迫されて息苦しいような、そんな鋭さを感じた。晃生は自分の身を守るように肩を抱いて体を丸める。
一歩二歩と、草を踏む音で助手が近付いていることを察する。伏せた視界の端に靴が入ってきて、一拍置いて、助手は右手を差し出したようだ。手の上には鈴が乗っている。その意図がわからず、晃生は差し出された腕を辿って助手の顔を窺った。
「とは言っても、自分の目で見ないと信じられないでしょ。これ使ってみて」
「使う、て……」
どう使うのか予想もできないまま、晃生は取り敢えず手を伸ばす。指先に触れた鈴が小さく音を立てた。
と、空気が重くなった、ヒリついた、ジメッとした。息を吸うごとに、喉を塞ぐように張りついて、粘着いたものとなった。自然と晃生の呼吸は浅くなる。
それに視線も感じる。刺すような、はたまた値踏みするような強い視線の元は、見てもいないのに確信を持てた。あの電話だ。歯の根が合わなくなる恐怖の中、晃生は確かに、電話のある方向から鼓動のような重低音を聞いていた。
「ゆっくり振り返ってみて」
出来ない。そう思ったはずなのに、言葉に操られるように、体はジリジリと向きを変える。禍々しい空気というものを視認してしまって、晃生の口からは噛み殺せなかった悲鳴が上がる。
中の電話を中心に、電話ボックス全体が蠢いているようだった。小さな一つ一つに意思があるようにも、全て纏めて一つであるようにも見えた。気持ち悪い、と、晃生は生理的嫌悪から口を抑える。
「あれが、君の話したい相手?」
「ち、がいます……違う、あれは、あんなのは、兄さんじゃない……!」
晃生の叫びに、それ・・は反応した。ぞろりと蠕いて這いずって、一歩一歩と移動する。目指しているのはきっと晃生だ。けれどその動きはぎこちなくて頼りなくて、まるで足を使って歩いていないような。そう思った途端にそれ・・の輪郭はぶれて、収まったあと、そこにはハイハイをする大きな赤ん坊がいた。危なっかしい。踏み出そうとした体を、肩を掴まれて止められた。
「あれは物真似するお化けだよ。忘れちゃいけない」
「あ……」
咄嗟に振り向いた先に、助手の青い目を見た。穏やかな声に促されるように視線を戻すと、そこにいたのは赤ん坊ではなく、悍ましささえ感じさせるナニカだった。一瞬前の赤ん坊は幻覚だったのだろうか。
視界の端で、助手がスッと右腕を上げる。掴まれていた肩はいつの間にか自由になっていた。そうして立てた人差し指の先に、吸い込まれるような力の渦を感じた。晃生の手に握り込まれた鈴はチリチリと鳴り止まない。
「君はもっと、周りの人を頼ったほうがいい」
球体となった渦が一際明るい赤い光を纏う。目を灼くような赤に、思わず晃生は瞼を閉じた。