一日目

目が覚めると、五条の寝顔が間近にあった。寝息を感じるほどだ。その距離と体勢に驚くより先に、期間限定で素直な七海の口は「美しい」と溜息を零す。途端にパチリと五条の目が開いた。もしかしたら狸寝入りだったのかもしれない。
「治ってないね」
「……そうですね」
言い訳のしようもない状態に、七海は顔から火が出そうだ。さらに言えば、一晩経ったら治っているかもという楽観的思考も打ち砕かれた。踏んだり蹴ったりだ。
ベッドから抜け出した五条を見送る。その背中に、七海は昨夜の、五条の家に着いてからのドタバタ騒ぎを思い起こす。
まず客間がなかった。五条の家には主寝室と書斎しか部屋がなく、当たり前だが客用布団もない。食器は一人分を最低限、食材の買い置きもなく、しかし砂糖は備蓄してあった。きっと寝に帰るだけの部屋なのだろう。
ベッドは主寝室にしかないと説明されて、ならソファを貸してくださいと、七海にしては随分と食い下がった。リビングの床で良いです、とまで言った。けれど五条は七海よりも頑なで、大きいベッドだから大丈夫の一点張りで、結局は引きずり込まれたのだ。
七海が頭を抱えて深く長く息を吐いていると、ひょこりと五条が顔を覗かせる。
「ご飯用意してるから、さっさと起きなよ」
「……、……はい」
「新妻」という呟きを漏らすことは回避した。しかしその言葉を呪いのせいだと責任転嫁できず、七海は頭から布団を被って引き籠もりたくなった。そろそろ腹の虫が盛大に喚き出しそうだからどうにか堪えたが。
五条の作る朝食は美味しかった。呪いの影響もあって逐一感想を伝えていると、反比例するように、五条は口数が少なくっていく。その耳が赤いことに気付いた七海は、咄嗟に口を抑えて言葉を呑み込んだ。そうでなければまた「かわいい」などと口走っていただろう。誤魔化すように咳払いを一つして、七海は居住まいを正す。
「今日の私の任務ですが――」
「あーそれ、僕が行くから」
五条がそう言うのなら、きっともう決定事項なのだろう。七海の性格上、ハイソウデスカと流すことは難しいのだが。
「……わざわざ五条さんが代わらなくても」
「しょーがないだろ。一級の任務の代役なんて誰でもできるもんじゃないし」
「なら私が行きます。幸い、祓除に不都合はなさそうなので」
「それこそダメに決まってんだろ」
「とりあえず、今日の任務は僕が行くから」と押さえつけられれば、七海としては不満が募る。しかし呪いを引き連れて祓除に向かい、何事かあれば、巻き込まれるのは七海だけではない。七海は頬の内側を噛んだ。
実家いえから持ってきた本もあるし、調べといてよ。手掛かりがあるかもしれないから」
「……わかりました」
体の良い言い訳だ。とはわかっているが、滅多とない五条の気遣いも感じられたから、七海は渋々と頷いた。

一応の役割を与えられた七海だが、それだけで一日を潰せるとは思わなかった。マンションの一室に保管できる本の数なんて、たか・・が知れている。何も出来ない焦りを抱えた数時間後の自分を予想して、七海は家事の分担を申し出た。というより一手に引き受けることにした。
「これ全部作ったの? もしかして前はシェフしてた?」
「慣れてるだけですよ」
茶化しているだけかと思ったら、どうやら本心だったらしい。
五条は「おいしい」と一々言葉にしながら食べ進める。呪われているのがどちらなのか、わからなくなりそうな程に褒めるものだから七海は照れ臭くて仕方ない。
「……大袈裟ですよ」
「ホントにおいしいから! それに、言葉にするとよりおいしく感じるらしいし、オマエも言ってみれば?」
とはいえ、目の前に並ぶ料理は七海自身が作ったものだ。それらをおいしいと言うには、七海の羞恥心やら何やらが邪魔をする。
「……おいしいです」
キラキラとした目で見詰めてくる五条に負けて、七海はごくごく小さな声で呟いた。パアと音がしそうな五条の笑顔が眩しくて、七海は視線を手元に落として食事に専念する。黙々と食事を平らげる七海に、五条は一転して唇を尖らして不満げになったが。
「あーそうだ、明日と明後日は僕もいるから」
五条は何でもないことのように言うが、特級呪術師が丸二日もオフを取るのは、そう容易いことではない。驚きに箸を持つ手が止まる。いつも振り回されている後輩の顔が、七海の脳裏に浮かんだ。
「それは、……無理してませんか」
「緊急の任務はないからダイジョーブ!」
「いえアナタよりも、伊地知くんとか」
「オイオイオイ、かわいくないこと言うのはこの口か」
にゅっと対面から伸びてきた腕が、肉の少ない七海の頬を抓ろうとする。頬の厚みのなさに空振りした指を押し退けると、ムキになったのか、五条は反対の腕を伸ばしてきた。両手首を捕まえてホールドすれば、七海の手の甲を引っ掻いて、離せと無言の主張をしてくる。五条の膂力を知る七海からすれば、それは子猫が戯れついているような可愛らしい抵抗だ。
と、そこで七海は我に返る。子猫とか可愛らしいだとか、目の前の五条悟にはとてもでないが似つかわしくない表現だ。その思考を追い払うように、七海は頭を振る。
どうやら、この呪いは思考にも影響を及ぼすらしい。そう結論づけて、七海は二日間の多難さに頭を抱えたくなった。