社会人になってからこちら、微睡むように緩やかな空気というものを体験したのは、初めてかもしれない。ソファにもたれながら、七海はぼんやりと記憶をあさった。家入が様子見といった期間は折り返し地点にあるのに、七海としては、どうにも緊迫感が保てなかった。
いいのだろうか、こんなにゆるゆるで。というのは、隣で同じようにぼやぼやとしている五条も、感じているのかもしれない。と思っていたが。
「普段は仕舞い込んでる本音を全部言ってみたらどうかな」
独り言だと思っていたら、解呪に向けての提案だったらしい。「どう思う?」と訊かれてようやく、五条が会話を始めたことに、七海は気付いた。
五条がわざわざ言うならば、おそらくそれは解呪の手掛かりになることなのだろう。しかし今の七海は呪いの影響で口が滑りやすい。何事か感じると同時に言葉にしているくらいだから、これ以上は仕舞い込んでいる本音も何もない、はずだ。
「呪いのせいで全部喋ってますよ」
素直に言えば、五条は片眉を上げてさも疑わしいという表情をする。器用なことだ。
「オマエ、言い掛けてやめること多いだろ。全部ゲロっちゃえよ」
ポーカーフェイスには自信があったが、五条には通用しなかったらしい。ニマニマと笑う五条に眉を顰めながら、七海は口元を覆って考え込む。
「……アナタへの愚痴が半分超えるかもしれませんが?」
「うわーかわいくない奴! そこは嘘でも褒め称えろよ」
「嘘は言えないので」
わざとらしく頬を膨らますその顔は、アラサー男性がしていいものではない。驚くほどの童顔のお陰で妙に様になっているが。「かわいい」という言葉を呑み込むのに慣れてきた七海は、お返しに、冷めた声とともに溜息を吐いた。
タイミングのせいではあるが、呪いに掛かってからの七海は、ほぼずっと五条と一緒にいる。昨日からは五条としか顔を合わせていないほどだ。
だからだろうか、今の七海の頭に浮かぶのは、五条のことばかりだ。半分以上が一人の愚痴になるということは、裏を返せば、その相手のことを四六時中考えているということだ。
そんな本心を明かしたら五条はどんな反応をするのか。好奇心に負けて滑りそうになる口を、七海は必死に抑えていた。
促されて渋々と、七海は、五条曰くの仕舞い込んでいる本音を吐露していった。そんな七海の苦労をよそに呪いは居座ったまま、二人は一つベッドの上で隣り合って寝転んでいた。居心地悪いと感じるほどではない静けさの中、七海は躊躇いがちに口を開く。
「五条さん」
「なに?」
五条の声はいつもよりノロノロと重たげだった。もう眠いのかもしれない。起こしてまでしなければならない話だろうかと、七海は続きを言い淀む。口の開閉を繰り返していると、五条が身動ぐ気配がした。チラリと横目に窺えば、七海のほうを向いた青い目が、暗闇の中で一際輝いて存在を主張している。
「……その、ありがとうございます。昨日も今日も」
「えっ」
「その反応はどういう意味ですか」
「七海が素直にお礼言うなんて……」
茶化しているだけだと思いたいが、もしかしたら五条は心から驚愕しているのかもしれない。五条に対しては沸点が二三度下がる七海は、その態度に眉根を寄せる。
「アナタの普段の行いが悪すぎるんでしょう」
「は〜〜〜? この最強でグッドルッキングガイな僕にそんなこと言う〜〜〜?」
「そういうとこですよ」
七海は自分の気持ちを素直に言葉に変えた。そんな七海の言動も見越して、全て五条の思惑通りなのかもしれないが。
いわゆる塩対応で会話を終わらせて、七海は口を閉ざす。取り付く島もないと理解したらしい五条は、長く深く溜息を吐いた。いつもと立場が逆転したみたいだ。確認するまでもないが、五条はジトッとした目と尖らせた唇で、顔いっぱいに不満を表しているのだろう。
「オマエ、時々ホントかわいくないね」
「……五条さんは私のことをかわいいと思ってるんですか?」
「もっちろん、オマエはかわいいかわいい後輩だからね」
「今はかわいくないけど」と、五条はつんけんした声で注釈を入れる。その言葉はささくれのように、七海の心をチクリと刺した。それは他愛無い言葉の応酬のはずだ。七海は刺さった理由がわからずに、思わず胸に手を当てて考える。
「……後輩だからですか」
精査する前に零れた言葉に、五条が息を呑んだ。やってしまったと自覚すると同時に、七海の口はまた回る。
「いえ、何でもないです。忘れてください。もう寝ましょう」
「……オマエから話しかけてきたくせに」
「言っておきたいことはもう言ったので」
心持ち、七海は五条から顔を逸らす。目を閉じて口も閉じた七海の子供っぽい逃げ方に呆れたのか、五条ももそもそもと仰向けに戻る。ふぅと、溜息だか深呼吸だか判断できない細い息を天井に吐いた。
「オマエのその、僕にだけ横暴なの、何なんだよ」
七海は答えあぐねて無言を返す。五条は一呼吸分待ってから、「わかったわかった」とおざなりに言葉を放る。今度は完全に七海に背を向けた。
「もう寝よ。明日になったら呪いも解けてるでしょ」
「そう、ですね……そうであってほしいです」
それはつまり、この居候生活も終わりということだ。七海は唐突に理解した。そして実感した。そうなると途端に惜しく思えてくるもので、七海は歯切れの悪い相槌を打つしかなかった。