真白い病室の、たった一基しかないベッドの上。数日前にやっとリハビリが終わった状態の七海に、一体何の仕事が出来るというのか。今の七海は自分を生かすので手一杯だ。
そんな疑問は全て、七海の顔に出ていたのだろう。七海に仕事を持ってきた家入は「ついて来て」と白衣を翻す。数歩先のドアの前で立ち止まった家入に促されて、七海は渋々と立ち上がった。
病室で喋ったきり、家入は無言だ。しかし七海のことを気に掛けていないわけではない。むしろ七海が申し訳なくなるほど、気遣われていた。たとえば七海が遅れてないかと流し見て確認されるたび、七海は自身の体たらくに胃が重くなってしまうのだが。
そうして、いくつかの角を曲がって階段を登って降りて、ようやく目的地に到着したらしい。七海のいた個室よりも少しばかり大きいドアの前で、家入は止まった。半歩後ろで七海も同様に歩みを止める。
目の前のドアの中、薄っすらと感じる呪力に、七海の心はざわついた。見慣れた呪力だ。特にそうと意識していなくても、常なら彼の呪力は海のように底が見えなくて、深い。なのに、ドア越しということを差し引いても、その呪力は弱く薄かった。たとえば姿を隠しているような、あるいは、死にかけているような。七海は背筋が凍るような恐怖を感じた。
「入るよ」
部屋の中に向けてか七海に向けてか、一言だけ断りを入れて、家入はドアを開け放つ。
ドアの先は、医務室で嗅ぎ慣れた消毒液のにおいで満ちていた。レースカーテンを通して弱められた陽射しが柔らかく照らし、室内には穏やかな空気と時間が流れている。
温かな室内の窓際に鎮座する大きなベッド、その中央に五条がいた。何が面白いのか、その顔は窓の方向に固定されているように、微動だにしない。
いや、目の前のその人は、本当に五条悟なのだろうか。呪力と特徴的な白髪から、七海は五条だと判断した。しかし部屋に入ってきた家入に応えない姿を見ると、七海の中に疑念が湧いてくる。家入はそんな五条の様子も気にせずにズカズカと部屋に踏み入った。
「五条」
家入が声を掛けて、五条はようやく振り返った。やはり様子がおかしい。五条はあれでいて育ちが良いから、呼び掛けに応えるときは返事を忘れない。機嫌が悪いときは短く、嬉しいことがあったときは間延びして、などと違いはあるが。
家入と、その後ろの七海も合わせて見上げてくる青い瞳は、見間違えようもない。六眼だ。けれど目の前の人物を五条だと断定できず、七海は警戒から身を固くした。一歩一歩、ゆっくりと家入のあとに続く。
ベッドの脇に立った家入は、手を伸ばして五条の頭を揺らすように撫でた。柔らかい前髪は動きに合わせてその顔を擽るが、五条が反応を示す素振りはない。もしや触覚がないのだろうか。一向に声を出さないのも、声を出せない可能性があるのではないか。
「その人、どうしたんですか」
「……どうしたのか、何もわからないんだ」
家入が、珍しく疲弊しきった声で答える。目の下の隈が常態となっている家入だが、声まで取り繕えないことは滅多になかった。
「怪我も病気もない、呪いの気配もない、なのに一言も喋らない。まるで赤ん坊だな」
「いや、赤ん坊のほうがマシか」と自嘲するように家入は呟く。影のある表情だった。
「自発的に食事をしようとしないし、空腹を訴えることもない。言われなきゃ寝ようとしないで気絶する」
家入は髪を撫でていた手を下ろして、その先の頬を抓る。むにと頬が柔らかく伸びても、五条は相変わらず、無表情に家入を見上げるだけだ。何が楽しかったのか、家入は吐息とともに小さく笑う。
いつもの戯れ合いというには随分と異質な雰囲気に、七海は止めても良いものか迷ってしまう。中途半端に上げた手が行き場をなくして彷徨った。
「見ての通り、オートの無下限は切ってあるけど、反転は回し続けてるらしい」
白く伸ばされた頬は餅のようだ。痛覚もないのかもしれないと、七海の疑念は確信に寄った。
「検査はしたが……今、高専は特に大変な状況だから、こいつばかり構ってられない。というか、匿いきれない」
言葉を切って、家入はチラリと七海に視線を寄越す。
「で、五条家の別邸に移すことになったんだけど、護衛できる人材がいないらしくって」
「……私がいてもそれこそ力不足ですよ、他の方に」
「一級のくせに何言ってんの」
遮るように笑う家入に、七海は反論は無駄だと理解する。溜息も出ないほど呆れていると、七海に向き直った家入は、その肩を軽く叩く。はたして、励ましているのか、諦めろという無言の圧なのか。
「というわけだから。よろしく、七海一級呪術師」
「どうせ、拒否権はないんでしょう」
グッと喉の詰まったような唸るような声を出す七海に対しても、家入は笑うだけだった。