初恋と失恋 3

卒業式の日も、五条の周りには変わらずに人だかりが出来ていた。
とはいえ予想通り、五条は三年の教科担当にはならず、学級担任でもなかった。彼にしては珍しく少ない人の輪にいるのは、顧問を務めた部活の生徒ばかりだろう。一人ずつに頭を撫でたり握手をしたり、時には肩を組んだりしているその光景に、七海は表情を取り繕うのに苦労した。眉間のシワは常態だと開き直ったけれど。
顔をくしゃくしゃにして笑う五条を見ていると、七海はまたしても気の迷いを起こしそうになる。告白してしまっても良いのではないか、と。私用の連絡先は知らないから、卒業したら二人の縁はそれきりだ。それなら少しくらい迷惑を掛けてしまっても良いのではないかと、厄介な甘えが出そうになる。どうせ断られるのだから、少しくらい、と。
言いたいのか言いたくないのか、自分でもわからない気持ちを持て余して、七海はモゴモゴと口を動かす。そうするうちに五条の周りの人は捌けていった。緩く手を振って見送る五条の背中を、七海は眩しいものを見るように眺める。
振り向いて気付いたら、視線が合ったら、言ってしまおうか。そんな偶然が起こったら、言ってしまっても良いのではないか。七海の頭に無責任な言葉が過った。
見送りを終えた五条が振り返る。一瞬合ったように思えた視線はすぐに逸れて、そのまま、五条は立ち去ろうとした。
「五条先生!」
考えるより先に口が動いていた。五条の足は止まって、俯き気味だった顔が七海に向けられる。七海の足は大股に進んで、二人の間の距離を縮めた。
「卒業おめでとう」
「ありがとうございます」
「去年ぶりかな。大学行くの? 受かった?」
「受かりました」
「良かったねぇ。君は成績良いから心配いらなかったと思うけど」
「いえ、そんな……」
会話が上滑りしている。担任を外れたのだから当たり前とはいえ、七海は言葉にし難い寂しさを感じてしまった。話の膨らませ方も続け方もわからず、五条との間に沈黙が落ちる。
「……それじゃあ」
「あの……!」
踵を返そうとする五条に、思わず七海は声を上げた。七海の勢いに驚いたのか、五条は元から大きい目をさらに大きく丸く見開いている。けれどすぐに眦を下げて、「何かな」と柔らかく七海に続きを促す。
優しい笑顔だった。
今ここで告白したら、きっと五条を困らせる。この笑顔も曇ってしまう。そう気付けば、七海の喉は張り付いたようになって、口を開閉させることしかできない。困らせてもいいなんて、迷惑を掛けてもいいなんて、顔を合わせてしまえば、とても七海には思い切れなかった。
「いえ、あの……何でもない、です」
「そう?」
「はい……あの、二年のとき、ありがとうございました」
「どういたしまして」
「律儀だなあ」なんて微笑ましげに言う五条と、それからどう別れたのかは覚えていない。ただいつだかと同じように、グイと腕で顔を拭ったのだけは忘れられなさそうだった。

◆ ◆ ◆

思い出に浸ると時間の進みが早い。
チラチラと五条の様子を窺いながら過ごしていたら、あっという間に終了間近となった。彼の周りには引っ切り無しに人が訪れる。最初は部活に入っていた生徒、それから七海の同級生、その後は一度話してみたかったという生徒が集まっていた。まるで有名人だ。いや、思い返してみれば、校内での扱いは有名人と変わりなかったか。どうにか人の切れ目がないかと窺っていた七海は、周囲の隙の無さに嘆息した。
会場の前方、壇上に上がった幹事が終了の音頭を取る。ぱらぱらと疎らな拍手に加わりながら、七海はさてどうしたものかと頭を悩ませていた。
何となく、カンでしかないが、これが最後のチャンスに思えてならない。実際、五条の連絡先は知らないから、七海から連絡を取るのは難しい。高校の交友関係はほぼ断たれているから、尋ねられる知り合いもいない。ダメ元で高校に問い合わせたり知り合いに言付けを頼んだり、手段はそれでも思い浮かぶが、理由を訊かれて言い繕える気がしない。結局はそこに戻ってしまう。自身の感情が絡むと途端に腹芸が下手になるとは、前世で五条にも指摘されたことがある。
人の流れに乗って会場から出て、ぼんやりと、エントランスの端で立ち尽くす。中央には人が集まっていて、きっと二次会の相談でもしているのだろう。その集団から、「えー」と不満を露わにした声が響いた。
「五条センセ、もう帰っちゃうんですか?」
「ごめんね、今日は早く帰らないといけないから」
用事があるだけかもしれない。しかしそこで、声を上げた誰かも周りも、五条の薬指に鎮座する指輪を思い出したのだろう。呼び止める言葉は掛からずに、五条は片手を上げて人だかりから離れていく。幹事の呼び掛けに形成された輪を抜けて、七海は五条を追った。
エントランスの正面、幹線道路を挟んだ向かいには、商業施設を擁するターミナル駅がある。右手に曲がれば繁華街の入口があり、抜けた先には地下鉄があるはずだ。五条は右に曲がり、その背中を見失わないように七海は駆け寄る。後ろにいるだろう同窓生のことは七海の頭から抜け落ちていた。
「五条先生」
聞いてもらえるように、声を張る。五条の背中に伸びそうになった腕は、もう片手で握って抑え込んだ。振り返った五条はキョトンと目を丸くしている。前世でも思っていたが、いっそあどけなくすら見える表情も、彼の童顔にはよく似合ってしまう。
「久しぶりだね、……七海くん」
「お久しぶりです」
「これから二次会、だっけ? 君は参加しないの?」
「参加しません。それより……五条さん、と話したいんです」
口角が僅かに引き攣ったように見えたのは、七海の勘違いだろうか。溜息だか苦笑いだかわからない吐息を零し、五条は斜め後ろに首を巡らせた。
「……じゃあ、ちょっとだけ。あそこで話そうか」
そう言って、五条は七海を先導して喫茶店に入った。

「それで、話って何かな」
奥まった席を選んだ五条は、メニューを見るのもそこそこに七海に促した。早く終わらせたいという意図は透けて見えるが、それがどんな感情からくるものか、七海にはわからない。今の五条について知らないことが多すぎた。
「……五条さん、私は思い出しました」
「思い出したって大袈裟でしょ。高校卒業してまだ十年も経ってないんだよ」
「それよりもっと前です」
五条のはぐらかす言葉を遮る。七海の出方を窺うように、五条はピタリと口を閉じた。
「アナタはずっと覚えてたんじゃないですか」
「何のことかな」
知らない振りをしているのか、本当に覚えていないのか。いずれにせよ、きちんとした告白にきちんとした拒絶が返されるまでは振られていない。そう思うことにした。曖昧な言葉も態度も、七海は数えないことにした。
そうして七海には、前世というアドバンテージがある。五条のツボが変わっていないという保証はないが、それでも何の取っ掛かりもない相手とは話が違う。
「私はアナタと一緒にいたい」
殊更にしおらしさを装った声を出すが、七海の手は真逆の行動を取る。所在無さそうにさ迷っていた五条の両手を引き寄せ、自分の両手で包み込むように握ってみせた。五条の手がピクリと震える。彼の戸惑いは伝わってきたが振り払われることもなく、七海は押せばいけるとの確信を得た。
もう無下限呪術バリアはないのに、こんなに無防備で大丈夫だろうか。脳裏に心配が過るが、あくまで身内限定の無防備さだし、これからは七海が目を光らせるから危険はないだろう。
「アナタと、今度こそ一緒に生きたいんです。そう思ったのは私だけですか」
五条の視線も呼吸も揺れている。否定も誤魔化しもしないなんて、覚えていると認めたようなものだ。もう一押しと、七海は目を伏せる。
「……もう、アナタにとって私は必要ないんですか」
「そんなっ……わけ、ないだろ」
咄嗟の否定に、その勢いに、五条自身が驚いたように言葉を失った。気不味そうに視線を泳がせる五条とは対照的に、七海は口角が上がるのを止められない。目元も緩んでいる自覚がある。
「アナタも、私と同じ気持ちなんですね」
「いや、あの、今のは……」
七海がじっと見詰めれば、五条はあちらこちらに泳がせた視線を伏せてから、小さく小さく首肯いた。消え入るような「うん」という声も七海には届いた。思わず七海の両手に力が籠もる。
「私は今もアナタのことを愛しています」
「う、ぼ、僕も……」
「また恋人になってくれませんか」
「……うん、いーよ」
言質は取れた。けれど七海はまだ足りない。五条にも、その気持ちを言葉にしてほしい。案外と恥ずかしがり屋な人だから難しいかもしれないが。
「五条さんは言ってくれないんですか」
「え、あ、いやーその……」
逃げようとした手を引き留める。見る間に赤くなった頬は熟れた果実のようで美味そうだ。
「ぼ、僕も、オマエのこと、好きだよ……」
段々と尻すぼみになる告白を聞き届けて、七海は喜びのままに五条を抱きしめたくなった。けれど恋人の照れた顔をこれ以上人目に晒したくなくて、七海は「嬉しいです」ともう一度、その想いが伝わるよう願いながら囁いた。