短編 甘えられた

声が聞きたいと思った。
終電もとうになくなった真夜中、しかし七海は稼ぎのある大人だ。関東近郊の任務だったなら、タクシーに飛び乗って一路、高専にいるだろう五条の元を訪ねているところだ。
しかし県どころか地方も違うとなれば、流石にそんな無理はできない。何より、そうやって無理を押して訪うと、当の五条にとてもとても心配される。
七海としては甘え甘やかしという恋人の時間が楽しみたいのであって、いたずらに心配させるのは本意ではない。
打つ手なし、と、少し前までならとぼとぼとホテルに向かっていたことだろう。けれど七海はもう知っている。
五条は恋人に甘えるのも好きだが、それと同じくらい、甘やかすのも好きなのだ。そうして、五条の甘やかしは、ワガママへの受容という形を成している。
強行軍で逢いに行っては心配させるばかりだが、普通なら非常識とされる時間帯の電話なら、五条は嫌がらない。むしろ喜んでくれる。
確信を持って言えるからこそ、七海はスマホを取り出した。
『……ん、七海?』
「はい、……寝ていましたか?」
コール音は案外と長く響き、電話口の五条は眠気の勝った声をしていた。七海の着信で起こしたかもしれないということには、流石に罪悪感を覚える。
『まぁ、でも、七海の声聞けたから』
『ラッキーだね』と、ふわふわと解けそうな声で夢見心地に囁く五条は、きっと声と同じように柔らかく蕩けそうな笑顔をしているのだろう。そのふにゃふにゃとした笑顔を思い浮かべれば、自然と、七海の強張った表情筋も緩んでいく。
「五条さん、私も、声が聞けて嬉しいです」
『んんん……七海、疲れてる?』
正直に心の内を吐露した七海に対して、幾分か声のシャッキリとした五条は少し照れているようだ。
物慣れる様子のないところがまた可愛らしいと、七海の思考もだいぶフワフワと浮かれている。五条の指摘どおり、七海も疲れているので。
「そうですね。疲れました。労働はクソですが、特に今日はクソでした」
『そっかぁ。頑張ったね、お疲れさま』
「頑張りました、ので、ご褒美がほしいです」
耐えきれず、五条は小さく噴き出した。それから続く笑い声はカラコロと楽しげで、常の軽薄な笑い方は鳴りを潜めている。
『帰ってきたら、ね。何してほしい?』
「美味しいパンが食べたいです」
『うん』
「それから買い物に行きたい」
『いいね。どこ行こうか』
「どこでも……ただ、昼も手作りがいいです」
『はぁーワガママだな、オマエ』
わざとらしく溜息を吐いてみせても、五条の声はどこまでも楽しげに揺れている。七海がワガママを遠慮なく口にすると、五条のほうも甘やかしたいというスイッチが入るらしい。
『先輩をこき使いやがって』
「恋人にお願いしてますから」
数秒の間。
七海としても気恥ずかしい思いをしながら言ったので、反応がないと不安になる。
『あーもう、わかったから、じゃあな!』
「はい、おやすみなさい」
『オヤスミ!』
ぶっきらぼうな口調と荒い声は、五条の照れ隠しだ。
七海は疲れ切っていた。時間帯を無視して五条に電話するほど疲労困憊で、年上の恋人に甘やかしてもらいたかった。
恋人からの甘やかしが明日も続く、それだけで、七海は機嫌良くホテルに向かえた。