短編 甘えられない

声が聞きたいと思った。
出来るならば顔を合わせて食事をして、一つのベッドで眠りたい。
相槌だけで済むようにペラペラと喋り続けるか、あるいは、荒んでしまった七海の心をそっと撫でるように語りかけるか。どちらになるかは七海の疲れ具合と五条の気分次第だが、とにかく五条の声が聞きたかった。
家を訪ねるには非常識、電話だって余程のことがない限り掛けない、七海の腕時計はそんな時間帯を示す。殊に、五条は未だに七海のことを礼儀正しい後輩と信じ込んでいるから、こんな時間に電話をかけたら要らぬ心配をさせるかもしれない。
スマホを取り出してロックを解除して、電話帳を立ち上げたところから先、七海の手も思考も働かなくなった。
フリーズしたかのように動きを止めると、数秒と経たず、スマホの画面は暗くなる。黒い画面に映る七海の顔は随分と情けなく、意を決してスマホのスリープを解くも、やはりそこで七海の手は凍りつく。堂々巡りだ。
何度目かの黒い画面を見つめて、七海は肺の空気をすべて押し出すような溜息を吐いた。今度こそと意を決したあとの行動はスルスルと、顔馴染みの補助監督に任務完遂の連絡をして、通話終了の画面も見ないでスマホを仕舞った。
視界に入らないようにすれば、自身の意気地のなさにやきもきすることもない。
ホテルに着いてからも、七海は意図してスマホを見ないようにした。普段なら、補助監督からの折り返しの有無を確認するが、今はそれ以外の連絡がないことを突き付けられたくなかった。自分からは何もしないくせに臆病なことだと、自分のことながら呆れてしまう。
それでも、電話はおろか、メッセージの一つも送れない。
取り出したスマホをサイドテーブルに伏せて、七海はもそもそとベッドに潜った。

意識が浮上した。
寝入っていた七海を叩き起こした元凶は、停止させられることなく、サイドテーブルの上で震え続けている。聞き慣れた着信音は寝る前に思い浮かべていた相手のもので、もしや何事かあったかと慌てて手を伸ばす。
「はい」
『あ、七海? 寝てた?』
「……はい」
電話口の五条の声は場違いに明るく、緊急事態でないことだけは把握できた。途端に眠気が押し寄せる。
「用件は……」
『七海がね、寂しがってる気がしたから』
五条の声を聞いていると、不覚にも心が安らいでいく。今の五条は落ち着いた声を敢えて出しているようだから、七海の疲れ具合は筒抜けなのだろう。
五条は多分知っているのだ。今日の七海の任務内容を、それに付随した呪術界の内情を。
そうして疲弊するだろう七海を心配して、けれど心配したことを七海が気にしないように隠して、電話をしてくれた。五条の気遣いに、有り難さと恥じらいが綯い交ぜになる。
しかし眠い。
五条が穏やかに語りかけてくれる間も、七海の意識は睡魔に侵食され、舟を漕ぎ始めていた。
お土産は奮発しようだとか、声だけじゃなく顔も見たいだとか、五条のいる家に帰りたいだとか。一言だけでも、今、七海の抱える嬉しさと感謝を伝えたいだとか。
考える頃には、七海はすでに眠りに落ちていた。