全身はふかふかとしたクッションに埋まっていて、目線が低い。もしや家のなかで行き倒れたのだろうか。前職のころから、残業が続いてろくに眠れない日が積み重なると時々なるのだ。
眠気でボヤける頭をふると、少しだけ覚醒が促される。行き倒れたようだが枕代わりは用意できているし、今回の連勤はまだマシなほうだったのかもしれない。
いや、そうでもないかもしれない。
意識を靄のように覆う眠気は晴れていき、しかし反比例するように混乱は深まる。
目の前で交差させた自分の腕、と思われるものは毛むくじゃらだ。いつもの自分の髪と似た色合いの毛に包まれている。
おそらく犬か猫、それも割りと大型な種類の前足だ。どういうことだ。
不測の事態にいつもよりうるさく響く自分の呼吸音は、やはり犬になってしまったからなのだろうか。
それでも絶望とまでいかなかったのは、ここが見慣れた部屋だったから。二人が付き合うきっかけにもなった五条のお気に入りのひとつ、七海が合鍵をもらった高層マンションの一室だったからだ。
どんな異常事態に見舞われても、五条がその場にいなくても、五条のテリトリーのなかなら最悪の事態は起こらない。それは七海の意識の底の底に刷り込まれている。
少しだけ冷静さを取り戻し、神経を研ぎ澄ませば五条の残穢も感じられた。淡く青く光る軌跡は、七海の心から動揺を拭い去る。
そのタイミングで開錠の音がした。
やはり犬なのか、と諦めとともに実感したのは、玄関扉の鍵の音が鮮明に聞こえたからではない。鍵の音に気付くと同時に、尻尾がブンブンと揺れ始めたからだ。
嬉しくないわけではないが、こうもあからさまだと気恥ずかしい。
心のなかで誰にともなく言い訳しながらも、四本の足はしっかりと玄関に向かっている。
開けられたままのリビングのドアを抜けて、靴を脱ぐ五条の前に座ると、「ただいまぁ」と気の抜けた声が頭上から降ってくる。グリグリと頭を撫でるだけに留めた五条が洗面所に引っ込むのを見届けて、七海はリビングに戻ってソファに伏せる。
手荒いうがいと入浴の準備も済ませた五条は、七海の隣に、体を投げ出すようにソファに座る。その横顔は相も変わらず美しいが、疲れが滲んでいた。
五条の思うままに伸ばされた膝に頭をのせて、顎で強く押す。
そうすると、五条は誤差程度に口角を上げて投げ出していた手を七海の頭にあてて撫でてくる。五条の表情筋は、彼が活用しようと思わなければひどく物静かなタチなので。
もどかしいな、と七海は思う。
こんな犬の姿でなければ、五条の止めどない愚痴を聞き流して、頭を撫でることもできるのに。入浴の準備も先回りしてできたのに。
何より、抱き締めることができたのに。
いつもから頑張っている五条が、頑張っていることも気取られないように頑張る五条が疲れを見せたときに受け止められないならば、意味がない。
癒しになれても、一緒にいられる時間が増えても、命の危険が減ったとしても、これでは意味がない。
ふわふわと、穏やかなばかりの空気のなか、七海は夢なら早く覚めてくれと強く願った。
その途端、七海の意識はスコンと落ちて、目を開いたら毛むくじゃらの前足はなくなっていた。
七海の左腕を枕にしている五条は、ぐっすりと寝入っているようだ。
その穏やかな寝息に幸せが込み上げて、七海は目の前の体を緩く抱き締めた。
◆ ◆ ◆
今日も一日頑張った。
帰宅の足取りはいつも通りに重いが、それでも家で待っている存在を思えば気分は上向く。
玄関開けたら二分で七海。
実際には玄関の目の前で「おすわり」をしているから二分もかからない。ゼロ秒で七海だ。
その姿を思い描けば鍵を開ける時間ももどかしく、どこかワクワクしながらドアノブを捻る。
はたして七海はちょこんと座っていて、疲れも一気に吹き飛ぶ気がした。
「ただいま」と案外気の抜けた声をかけながら頭をグリグリ撫でて、しゃがみこんでギュッとハグを、したいところだが我慢した。まずは手を洗って、ついでに上着も脱がなければ。
洗面所に向かう五条の背後からはタシタシと七海の足音がして、開きっ放しのドアからリビングに戻るのだろう。
ソファに寝そべる七海は、興味ありませんとでも言うように顔を伏せながら、五条の一挙一動に耳をそばだてていることは知っている。
あとの自分のために風呂のお湯はりだけ始めて、いそいそとリビングに向かう。予想通りにソファに寝そべっている七海は、今度は「やっと来ましたか」なんて顔をして、チラリと五条を見やる。
ちょっとつれないところも可愛いのだが、いい加減、外向きのテンションを取り繕うのも難しくなってきた。何せ今日は疲れているので。
思ったよりも乱暴にソファに体を埋めて、全身から力を抜くように息をつく。
思考も止めて中空を見るともなしに見ていると、投げ出した膝に重みが乗る。ついでにぐいぐい押し付けられてちょっと痛い。
だけどこれは七海の気遣いなわけで。言うなれば幸せの痛みとか、そういうものなわけで。
幸せに顔を蕩かしながら、膝上の七海の頭を撫でる。いつもなら五条の意識が虚空から逸れたことに納得して目を瞑るのだが、今日は依然としてじっと見つめられている。
いつもより心配させてることに少しの申し訳なさを感じるが、誤魔化すこともできずに、七海の頭を撫でつづける。今この場で一番癒しを得られるのは、この行動で間違いないのだから。
撫ですぎてハゲたらどうしよう、と斜め上に思考がとび始めたところで、五条の意識はスコンと落ちた。
緩やかに意識が浮上して、最初に感じたのは重みだった。下手をすると悪夢を呼び起こせそうな重量感だった。
胸の上にうつ伏せになった七海の眉間には、普段は刻み込まれているような皺もなく、幼ささえ感じる寝顔だ。キスでもしたいところだが、届かないので目元にかかる前髪を払うだけにした。
そうして、七海の深く穏やかな寝息に眠気を誘発された五条は、七海の背中に緩く腕を回して二度寝についた。