短編 猫になる

起きたら猫だった。
比喩でもポジションの話でもなく、ニャーと鳴いて四つ足の推定ネコ科ネコ属の動物になっていた。
何を言っているかわからないと思うが、五条にだって何が起こっているのかわからない。
頭を上げて「ふせ」の体勢になって、周りを見渡す。
どうやらベッドの上のようだ。内装には見覚えがあって、おそらく七海の家だろう。寝入る直前の記憶と地続きの場所にいることに、とりあえずは安心した。
状況把握のために立ち上がって、ついつい伸びをしてから、ベッドから飛び降りる。人の姿でへりに座れば膝が鋭角に曲がる高さなのに、猫からすると少し高いかもしれない。
七海の家って猫飼うのに向いてないんじゃないの、なんて、どうでもいいことを考えながら扉の前に歩み寄る。
タイミング良く扉は開いたけど、足音はベッドから降りる頃には聞こえていたから、慌てず騒がず「おすわり」をして出迎える。やっぱり七海だ。
「起きていたんですね」
羽毛のように柔らかい声とともに七海はしゃがみこんで、背中を撫でてくる。その手つきは年季を感じさせるくらいコツを掴んでいて、五条は思わずゴロゴロと喉を鳴らした。
ゆっくりと猫の五条を抱えあげた七海が向かうのは、きっとリビングだ。そのあいだも、柔らかい声は他愛ない世間話を続けている。
その穏やかな七海の横顔を、斜め下というあまりないアングルから五条はじっと見つめる。
五条にこれだけ優しく接するなんて、人の姿だったらそれこそ夜くらいじゃないだろうか。
今の状況が何なのか、ただの夢なのか敵の術中かもわからないが、ちょっと役得かもしれないと五条は笑う。もちろん心の中だけで。
なにせ昼間の七海ときたら、塩対応ばかりなので。
それで愛を疑うなんてことはないが、ただただつまらないのだ。それ以上に寂しいのだ。
先輩という矜持と、恋人にカッコつけたいオトコゴコロというやつで、口には出さないが。
ならばあともう少しだけ、このままでも良いのではないか。
どうせただの夢なので。ならばちょっと役得を感じても、バチは当たらないだろうと思うので。
存分に堪能することに決めた五条は、七海の首筋に頭を擦り付ける。五条の真意を知らない七海は、「甘えたですね」なんて言いながら目尻を下げる。

あ、チューしたい。

頭の中をひとつの感情で埋め尽くしながら、五条は七海の顔を見上げる。
五条の何らかの言動が、七海曰くの「ツボにはまる」と、彼はこんな表情をするのだ。目尻を少し下げて息を思わずというように零して、愛おしくて仕方ないというような、そんな表情をするのだ。
七海のこの顔を見ると、五条はキスをしたくなる。
顔中に雨のようにバードキスを降らせたり、頬を両手で押さえて息の続く限りディープキスをしたり。伝染して増幅して溢れだしそうな「好き」を、行動で表したくなるのだ。なのに。
七海の胸を踏み台にして伸び上がっても顎に鼻先が触れる程度、その頬を押さえるには身長も腕の長さも全然足りなかった。
これでは、猫の姿のメリットなど帳消しもいいところ。

やっぱり七海といるなら、人の姿のほうがいいな。

そう、五条が思ったからなのか。
五条の意識はスコンと落ちて、目を開いたら人の姿に戻っていた。見慣れたベッドのなか、隣では七海が穏やかな寝息をたてている。
その顔を見ていたら、伝染したわけでもないけど「好き」が増幅して溢れだしそうになったので。
とりあえずは七海にキスのモーニングコールをおくることにした。

◆ ◆ ◆

その日はオフだった。
前日の帰宅は辛うじて日付を越す前というほどの時間外勤務だったので、早起きをして余裕のある朝食を、というオフの贅沢はできなかった。プラマイはゼロだ。
それでも朝食と呼べる時間帯に起きられたので、寝室をあとにして準備に取りかかる。多少強引にでも動き出したほうが、覚醒は促される。
昨日は残業だったが繁忙期ではないので、食材はそこそこある。
朝食とともに昼食の目処もたてて、食材を取り出す。冷ます時間を長くとるために、文字通りの猫舌の五条の分から調理を始める。
テレビもついていないので衣擦れさえ聞こえそうな静けさだが、心細さは感じない。寝室においてきた五条の存在のお陰であることは明白だ。
そろそろ起きるだろうか。
寂しがりだから、目覚めて七海の姿がなかったら拗ねてしまうかもしれない。ご機嫌とりに甘やかすのも楽しいが、折角のオフなので目一杯に構いたい。
自分の朝食の調理を手早く済ませて、七海は寝室に様子見に向かった。

寝室のドアを開けると、足下に五条がお行儀よく「おすわり」をしていた。
「起きていたんですね」と声をかけながらしゃがみこみ、その背を撫でる。ゴロゴロと喉を鳴らす五条がいっそう可愛らしく見えて、背中を撫でる手が止まらなくなる。
リビングに放置している朝食を忘れていたら、あと数分は撫でていたかもしれない。
そんなことを半ば本気で思いながら、抱えあげた五条に話しかけ続ける。内容もない世間話だが、コミュニケーションをとるということが大事なのだ、七海の精神にとって。
少しの疲れを見抜かれたのか、熱心に頭を押し付けてくる五条に「甘えたですね」なんて笑いかける。実際は、甘えているのは七海のほうかもしれない。
今度は伸び上がって顎に鼻先を押し付ける五条に、あとで吸わせてもらおうかとまで考えたところで、七海の意識はスコンと落ちた。

起きたら五条に頬を押さえられて、半ばのし掛かるようにしながら、顔中にキスをされていた。これは五条の「好き」が溢れそうになったときにしたくなるのだと、他ならぬ五条から聞いている。
七海も何故だかそういう気持ちになっていたので、五条の手に自分の手を重ねて、お返しをすることにした。