短編 ココアを入れる

七海の自宅のキッチンには、ココアパウダーが常備されている。
砂糖などの加えられていないその粉末は純ココアとも呼ばれ、ココアドリンクにするにはひと手間かかる。美味しいココアにしようと凝り始めれば、ひと手間どころの話ではない。
一般的な用途としては製菓や、先述の通りの飲料、あとは成分無調整なので料理の隠し味にも使える。
甘党ではないし凝り性でグルメな七海だが、ココアパウダーは料理の隠し味のためのものではない。そもそもいくら凝り性でも、隠し味のために常備はしない。七海は案外とズボラだ。
七海の常備するココアパウダーは、もっぱらココアドリンクとして役目を全うしている。しかも頻度が高い。
久しぶりの休日を家事と読書で埋めた七海は、控えめに振動したスマホを一瞥して立ち上がる。向かう先はキッチンだ。
七海と五条は、かれこれ一週間は逢えていない。この期間を長いと感じるか短いと感じるかは人それぞれだろうが、七海は断然長いと感じる派だ。
出来れば一日に一食は、何なら毎食でも、顔を合わせて食事をとりたい。食事の内容はなんだって構わないし、ひたすら黙りこくって食べ続けるだけでもいい。
けれどお互いの、特に五条の多忙さゆえに叶わない。それを残念に感じるのは五条も同じだと知っているから、不満はあっても不安にはならないが。
七海と五条が一緒にいられる時間は、意外と、七海の主観では、少ない。
ならばその少ない時間くらい、五条には心身ともにリラックスしてもらいたいが、そうして七海が張り切ることを五条はあまり歓迎しない。七海にも体を休ませてほしいらしい。
五条は、七海の好きなようにさせることで、七海を甘やかそうとするタイプだ。七海のしたいことに、五条が待ったをかけるのは珍しい。
それに何より、五条が七海の体を慮ってくれたのが嬉しくて、七海は素直に従うことにしている。だけれど、五条を喜ばせたいのも心底からの願いだから、今からすることはその二つの妥協点だ。
小さな片手鍋にココアパウダーを適量落とし、乾煎りする。そうすることで風味が引き立つらしいが、生憎と七海は飲み比べをしたことがない。
煎ったココアパウダーに、適量よりも多めのグラニュー糖を加えて混ぜ合わせる。グラニュー糖を常備するようになったのは、ココアパウダーより前、五条と付き合い始めるよりも前のことだ。五条を家に招く口実になれば、胃袋を掴むでも何でも良かったので。
連勤になる前に消費した生クリームの代わりに、少量の牛乳でよく練って、ペースト状にしたら牛乳を追加して伸ばす。とろりと全体の色味が均一になったら、一口サイズのチョコを一つ溶かす。これがあるのと無いのとでは美味しさが段違いらしい。
弱火にかけ続けていた片手鍋を火から下ろし、こぼさないように思い切りよくマグカップに注ぐ。一滴も残さずこぼさずに注げたことに満足して丸めていた背を伸ばすと、ちょうどインターホンが鳴った。五条が帰ってきたのだ。
キッチンを覗きこんだ五条がココアの香りに顔を綻ばせる、それを想像するだけで七海の顔にも笑顔が広がった。