短編 パイン味

お腹すいた。思わず、五条の口からポロリと零れそうになった。
どうにもこうにも空腹で、五条は段々と悲しくなってきた。不思議な現象だ。
五条は自他ともに認める、それこそ五条を煙たく思ってる相手も認めざるを得ないグッドルッキングガイなので、今まで空腹で腹の虫が鳴いたことはない。しかし今なら鳴くかもしれない。むしろ五条が泣きそうだ。
取り留めのないことをぼやぼやと考えて、難しいことを考えてカロリーが消費されることを回避しているが、限界だ。とにかく五条はお腹が空いていた。
いつもなら、飴の一つくらいは非常用にポケットに忍ばせておくが、間の悪いことに今日は品切れだ。つくづく、ついていない。
こうまでなると、予定外の任務をハシゴさせられたあと、腐ったミカンとの会合をねじ込まれたところまで含めて、全て狙ってやった嫌がらせに思えてくる。被害妄想だが。
いやいや、ハシゴのあとの会合は腐ったミカンの嫌がらせで間違いない。ただ、五条の思う方向性とは違うだけだ。
それもこれも、七海がいけない。と、今度は責任転嫁を始める。考えるだけなら自由だろう。
この程、恋人としてお付き合いを始めた七海は、イロイロとこだわりのあるタイプだ。そのこだわりの中には食事の欄もあって、なかなかの美食家で健啖家だ。
その七海と付き合うようになって、五条の食卓事情は劇的に改善された。
付き合う前までは、重視するのはカロリーだった。端的に言えば術式を回すためのエネルギーさえ足りていれば、後はどうでも良かった。今の時代、サプリやら何やら、便利なものが目白押しなので。
元々、五条は食に楽しみを見出していなかった。甘党だって、効率的なエネルギー摂取を突き詰めたらそうなっただけで、特に好き嫌いもない。味の良し悪しはわかるけれど、美味しいものを食べて嬉しいとか、不味いものを食べて嫌だとか、味と感情が結びつかなかったのだ。
それがどうだ。
今や、一日三食食べるのが当たり前になっているし、食事をろくに食べない日が続くと気分が上がらない。時々は食べたいメニューが浮かぶときさえある。
何より、七海と一緒の食事は楽しい。ここまで変わってしまった。
いい年してとか何だとか、思わないでもないけれど、これは嫌な変化ではない。ひたすら気恥ずかしいだけだ。
ぼんやりぼんやり考えているうちにも、足は自然と動いていて、五条は目的地に近づいていく。ミカンとの会合から解放されて一番に、五条はその呪力に気づいたので。
「なーなーみー」
「せめてノックしてください」
壊れない程度に力任せにドアを開けたら、七海の出迎えの言葉は呆れ混じりになった。甘やかしが半分以上を占めていることを知っているので、五条はむしろ嬉しくなるのだが。
しっかりとドアを閉めて足早に近づけば、ハグぐらいなら嫌がられない。これは、何度とない口喧嘩を挟んだ後に、五条が学習したことだ。公共の場でのマナーを気にする七海の、精一杯の妥協点はこのあたりらしい。
ギュッと五条の腕力で首に懐いても、七海はびくともしない。絞め落とさないように加減しているとはいえ、五条の腕力に耐えられるあたりは、七海にもゴリラの呼び名が相応しい。
首筋に顔を埋めて深呼吸をすると、空腹は収まらないが五条の気持ちは和らいでいく。七海愛用の整髪剤と香水と、少しだけ七海の汗と、などと馬鹿正直に言うと七海に引き剥がされるので、五条は大人しく口にチャックをした。
きゅるるるる、と音がする。
七海が目を瞠って驚きを表し、首を抱き締める五条の腕を解いて真正面から見つめ合った。五条は自分の腹にも腹の虫がいることを実感して、ついでに空腹も思い出した。
「お腹すいてたんだ。何かない?」
「……また抜いたんですか?」
呆れの割合を増やした声を出してから、七海は引き出しの中を探索する。しかしながら、いつもなら引き出しいっぱいにあるはずの備蓄の甘味も、今日は空っぽだ。五条は知っている。
何せ、七海が五条を出迎えたこの部屋は、五条に割り当てられた教員用の準備室なので。
「ストックも切らしたんですか……」
「買い足す暇もなくてさ。七海、お腹すいたぁ」
五条はわざとらしく甘えた声を出して、少し高い位置から上目遣いをして見せる。
「七海と付き合ってから食べる量増えたんだよ。前は一日一食でもいけたのに」
七海はおもむろに、自身のジャケットから飴を一つ取り出した。それは昔懐かしの、パイナップルの輪切りの形をしている。
「僕が太ったら七海のせいだから、責任取ってね」
ピリと聞こえるか聞こえないかの小さい音をさせながら、七海は個包装を開ける。七海の長い指でつままれた一粒の飴は、殊更小さく見えた。
つまんだ飴を、七海は五条の唇に押し付ける。五条が薄く口を開くと、飴は吸い込まれるように五条の口に収まった。
七海は飴をつまんだ手とは反対の右手で、五条の手を取り左手に口付ける。五条は飴を丸呑みしそうになった。
「責任を取れというのなら、喜んで」