というより空腹だった。
早朝からの任務というのは多くはないが、珍しくもない。呪術師の任務なんて、呪霊の都合次第で深夜からも早朝からも始まるものだ。
任務が早朝から始まるとき、七海は朝食を軽めに済ませる。これが五条なら糖分補給のためのブドウ糖で終わりかもしれないが、七海は胃に何か入れなくては空腹で辛くなる。かといって、いつもの朝のルーティン通りに食事までの時間を充分に確保することはできないから、悩んだ末の妥協案だ。
そうして、昼食を少し早い時間にしっかりと食べることで、バランスを取っていた。
しかし、そう予定通りに事が進まない日もある。たとえば今日だ。
早朝からの任務、つまり本日最初の任務は、予定の時間内で収まった。幸いにも大立ち回りを演じるハメにはならなかったから、このまま店に入るのもアリだな、と七海は考える。
七海のいる任務地から電車で一つか二つほど都内に近づけば、丁度、飲食店がひしめき合っているエリアだ。昼食には早い時間帯だから店内で食べるのも良いだろう。
そこで着信が一つ。
嫌な予感がした。その着信音は初期設定のもので、つまりは補助監督からの可能性が高い。任務完遂の報告は既にメールで済ませたから、任務の進捗確認の可能性はほぼ無い。
気付かなかったフリをしたかった。けれど、七海の社会人としての常識が、それを許してはくれない。
「……はい」
用件は、予想通りに追加の任務だった。
それから追加の任務をさらにオカワリしたり、人身事故で電車が運転見合わせとなったり。様々なイレギュラーを乗り越えてみれば、時刻はすでに夕方だった。辛うじて夕日の赤さを視認できるので夕方だ。
もはや意地だけで高専の敷地に辿り着いて、そこでハタと我に返る。何故高専まで来たのか。自宅のほうが近かったのに。
任務の追加数やらの事情を知っている補助監督からは、報告書は遅れても大丈夫と太鼓判をもらっている。そもそも報告書の提出は即日ではないから、任務後は必ず高専に寄らなければいけないこともない。
期限の差し迫った書類もなく、誰かと会う約束もない。何故来てしまったのか、いっそ七海のほうが教えてほしいくらいだった。
それでも、高専の敷地内に入ったときに、七海の目的地は定まってしまった。夢見心地の足取りで、七海は高専の廊下を進む。辿るのは白い石ではなく、青い残穢だ。
五条は、オートで無下限術式を展開して反転術式も回している。最強ゆえに残穢を隠す必要性がないからそのままで、だから五条の足取りは辿りやすい。七海にとって。
覚束ない一歩を繰り返しながら、七海はこの青い道がどこに繋がるかを理解する。五条の教員用の準備室だ。
いかな高専といえども通常授業はもう終わっている時間帯だから、きっと準備室には五条一人でいるのだろう。都合が良いと笑う姿は、少しばかり悪役じみていた。
「五条さん」
ノックはしたが、返事を待つ余裕はなかった。返事をする前に引かれたドアに、五条が驚いて一拍、間が空く。
「あれー、七海どうしたの? お疲れモード?」
字面よりも余程抑えられた声音に、五条の気遣いを感じて七海はホッと息を吐く。五条は予備の椅子を隣に引き寄せて、その座面を促すように叩いた。
「ほらほら、座りな」
「……お腹が空きました」
「えっ、僕甘いのしか持ってないけど……それでも良い?」
ポケットから何かを取り出す五条に、七海は頷いて返事をする。声を出すのも億劫だ。
「甘えたモードかな」と揶揄いながら、五条は小さなビニールを破る。五条がつまんで取り出したのは、目に鮮やかなオレンジ色だった。それは有名なパイン味の飴の姉妹品だ。
そこで、七海はつい先日のやり取りを思い出す。
「……五条さん」
「なーに」
「責任は、取らせてくれないんですか」
五条が飴を取り落とし、床を転がっていく。勿体ない。三秒ルールを適用しようにも、この部屋は残念ながら土足だった。
「おま、オマエ、いきなり、そんな……」
「待っていましたが、五条さんが触れてくれないので」
ションボリと、わざとらしく態度に出すと五条は言葉に詰まったらしい。年下らしさを前面に出した態度に、五条は相変わらず弱い。
飴から解放された指は忙しなく彷徨い、それを追うように、五条の視線も泳ぐ。逃げようとしているのだろうか。
すると突然、側頭部を押さえられて逆の蟀谷を五条の肩に押し付けられた。首を違えそうな体勢だ。そうして五条は、かき混ぜるように七海の頭を撫で回した。
「オマエがぽやぽやじゃなくなったら返事するから、寝ろ!」
「眠くはないんですが……」
「いーから」
頭を撫でる五条の手のひらから、じわりじわりと他人の体温が伝わってくる。それが五条のものだと思えば、七海の心には安堵が広がっていく。
そのお陰で、せめて飴の一つも食べたいという不満を口にする前に、七海は寝入ってしまった。