短編 浮かれている

由々しき事態だ。七海は唐突に思い至る。
左手を添えたボウルにはしっかりと泡立ったメレンゲと、脇にはふるった粉類を入れた一回り小さいボウルがある。右手に持つのはゴムベラだ。手を動かしても当たらない位置には、次に使うカードタイプのヘラがある。
何を隠そう、マカロナージュだ。
今から七海が行うのはマカロン作りの上で大切な工程、マカロナージュだ。これが成功するか否かで、マカロンの出来が左右されるといっても過言ではない重要な作業だ。
由々しき事態と思い至ったが、それについて思い悩んでいる暇は、今の七海にはない。製菓スキルも安定してきた七海だが、これから行うのはそれでも気の抜けない作業なのだ。
一旦悩みのタネは思考の外に追い出して、七海は粉類の入ったボウルを手に取った。

マカロンは恙無く美味しくできた。
ピエもしっかりと出て表面にはつやがあり、マカロンのあの食感も再現できている。満足のいく出来だ。
間に挟んだのはプレーンとチョコレートの二種類のバタークリームで、これも文句なしの味に仕上がった。
味見と称して一つずつ、合わせて二つのマカロンを小皿に避けて、インスタントコーヒーを淹れたマグカップとともにキッチンを出る。その脳内を占めるのは恋人である五条とのことだ。
七海は元から自炊派だが、この頃は製菓にも手を出している。正しくは呪術師に出戻りして任務もこなせるようになった頃、あるいは七海が五条と付き合いだした頃ともいう。割と年季が入っているかもしれない。
最初の切っ掛けは何だったか、流石に七海も覚えていない。五条にねだられたわけではない。徹頭徹尾、七海が思いついて七海がやりたくて始めたことだ。
七海の手料理を食べる五条が、とても幸せそうに笑っていた。七海にとって何かを始める原動力なんて、それだけで充分だった。七海は五条に首ったけなので。
そうして、簡単なものから作り始めた七海の製菓スキルは、瞬く間に上達していった。今ではマカロンだってシュークリームだって、朝飯前とはいかないまでも、余程のことがない限り失敗もしない。
そうも熟達するまで頑張り続けられた原動力といえば、先述の通り、五条だ。七海の惚れた弱みだ。
さくりと、マカロンを一口齧る。その出来の良さが、五条と恋人になれた七海の心情を、そのまま表している。
七海は年相応の恋愛経験を積んでいるから、五条は、初めての恋人ではない。だけれど、五条と恋人になれてからずっと、七海は上機嫌で、心が弾むようで、舞い上がるような気持ちになっている。要するに浮かれている。
それは悪い事ではないけれど、アラサーにもなって何をやっているんだか、という自嘲めいた思考に陥る。中学生でもあるまいし、とも。
二つ目のマカロンは丸ごと口に放り込む。口の中を占領する甘さを咀嚼して飲み込んで、最後にコーヒーでリセットした。たまにはと思って食べてみたものの、七海としては、一つで充分くらいにしか思えない。
「あれ、僕の分は?」
「キッチンにあります」
七海の手元を覗き込もうとした五条は、七海の座るソファの背もたれに手をついて身を乗り出した。五条との距離が狭まるだけで、七海の心はソワソワと落ち着きがなくなる。
マカロンに釣られてキッチンに興味の移った五条は、後ろ髪を引かれる様子もなくリビングから出ていく。七海はたったあれだけのことで、こんなにも平静さを失っているというのに。
そんな八つ当たりのこもった苛立ちも、キッチンから響く五条の歓声にかき消される。一つずつ味見して、そのたびにはしゃぐ姿を見ているかのように想像できる。その声は、考えすぎてささくれだった七海の感情を、撫でるように均してなめらかに整えてしまった。
そうなってしまえば現金なもので、今度は何を作ろうかなどと、次の休暇の予定を算段し始めてしまうのだ。