短編 嫉妬

それは高専内での出来事だった。何の変哲もない、強いていえば五条は任務が詰め込まれていなくて、七海を夕食に誘うことができて浮かれていた。
生徒たちの授業も終えた五条は、手持ち無沙汰に校内をうろつく。今から待ち合わせ場所に向かうには早すぎて、生徒が自主練でもしていないかと、ほんの少し期待して歩いていた。その先で、五条は見知った呪力を感じる。
場所は建物と建物を繋ぐ渡り廊下の外側、校舎からは木が遮って、様子が窺いにくい位置取りだ。けれども五条の長身をもってすれば、そんな障害は物の数にも入らない。グッと体を伸ばして覗き込むと、そこにいたのは七海だけではなかった。七海の真正面に、一人の女性がいる。
七海は五条にほぼ背を向けるような角度で立っていて、その表情は見ることができない。呪力の感じから、平常心であることだけは察せた。
対する女性には見覚えがなく、黒いスーツを着ていることから補助監督だろうが、おそらく五条と接点はないのだろう。彼女は俯いていて、けれど遠目からでもハッキリとわかる程に、頬を赤く染めていた。
恋愛偏差値の低い五条でも、ここまでヒントを出されたら理解できる。これはきっと、告白の現場だ。
告白真っ最中に乱入するほど、五条のデリカシーは枯渇していない。いや高専在学中ならしたかもしれないが、今は、そうしない程度のデリカシーを持ち合わせている。ただ何とはなしに目を離しづらくて、五条はぼんやりと眺めていた。
七海も補助監督の女性も、口を動かすばかりだった。距離を隔てた五条から見ても、甘い雰囲気とは到底思えない。けれど話している内容はさっぱりと聞こえないから、もしかしたら、全ては五条の願望に過ぎないのかもしれない。と、唐突に、女性のほうが頭を下げた。
最初はゆるゆると力が抜けたようだったのが、回数を重ねるごとに倍速になって、しまいにはコメツキバッタのようになってしまった。七海が告白を断ったのだろう。
慣れているなと思った。煽るような断り方をしてビンタを喰らうこともなく、けれどヘタな慰めをして引きずらせるようなこともしない。断ったあとに声を掛けている間も、補助監督の女性に近寄ることはなく、明確に身体的接触を避けているのがわかる。五条はそういったことが下手だという自覚があるから、余計に手慣れているように見えた。
五条の胸に、モヤモヤとしたものが広がった。七海は五条の恋人で、その恋人が告白されている現場を見て感じるモヤモヤは、嫉妬だろうか。けれど五条は七海の人柄を信頼していて、七海の誠実さもよくよく理解していて、それなのに嫉妬なんてするのだろうか。それとも焦燥か、ないと思うけど羨望か。
モヤモヤを上手く収められなくて、それで七海に八つ当たりすることはないけれど、七海はきっと気付いてしまう。五条の機微に気付いて、気付いた七海がどんな反応を見せるのか、五条には想像もつかなかった。
今は少し、このモヤモヤが収められるまでは、七海に会うのが怖い。

五条からメッセージが届いた。
『今日行けなくなった』という簡潔な一文のあとに、立て続けに『ごめん』の三文字。それ以降、通知はパタリとなくなった。
任務なら細切れで子供のような愚痴が延々と流れてくるから、きっとそれ以外の急用なのだろう。五条が断れないとなれば、実家関係だろうか。
残念には思ったが、それは五条も同じだろうと思えば、返信の文面にも甘さが込められる。また機会を窺って、今度は自分から誘えばいいと、七海は前向きに考えていた。が、どうやらそれだけでは終わらないらしい。
五条に避けられている、かもしれない。以前ほどあからさまではないから、七海の杞憂という可能性も捨てきれない。以前と違って私的な連絡にもきちんと返信がある、けれど、何に誘っても断られてしまう。それは例えば、「昼食を共に」なんて軽いものも含まれていて、やはり避けられているのではないかと落ち込むことが重なった。
そんな中、五条からの誘いがあった。『今日家来る?』というまたもや短い一文に『行きます』と即答してしまったのは、そんな疑心が、七海の中で育ってしまったからだろう。

◆ ◆ ◆

結局、五条はモヤモヤを解消できなかった。できないままに、七海を自宅に招いてしまった。七海不足が深刻だったので。
七海がどんな反応を示すのか、については今も予想もできない。けれどいい加減、七海と他人行儀に過ごすことが悲しくなってきて、五条は我慢の限界だった。
カチャリと、いつもよりは随分と控えめな音だけが食卓に響く。五条は避けていた後ろめたさから話し掛けにくくて、五条が声を出さないと、二人の食事中の会話は必然的に少なくなる。何とも言えず居心地の悪い空間だった。もしかしたら、そう感じているのは五条だけかもしれないが。
静かな食事を終えて、五条はリビングのソファの上で膝を抱えていた。ここが七海の家ならばソファには五条のくつろげる環境が整っているのに、五条の家は家主に対して素っ気なく整えられている。
「五条さん」
ビクリと、五条の肩が大袈裟に跳ねた。七海の顔を仰ぎ見ると、眉尻を下げて困ったように笑っている。その手にはマグカップが握られていて、きっと片方にはたっぷりのココアが入っているのだろう。
「私は、何かアナタを傷付けることをしたのでしょうか」
「違うよ。七海は悪くない」
ソファの上、五条から拳一つ分だけ離れたところに、七海は腰を下ろした。五条は抱えていた膝を下ろして、ローテーブルに置かれたマグカップを手に取る。じんわりと温かいカップの中は、やはりココアで満たされていた。
「ちょっと前、オマエ告白されてたでしょ」
「……そうでしたか?」
「そうでしたよ」
七海はしらばっくれているわけではないことは、その声色でわかった。きっと本当に覚えていないのだろう。
「高専のときはさぁ、声掛けられた程度で慌ててたのに、今じゃスッゴいスマートにフッちゃってさ」
ボソボソと呟く五条の眼裏には、いつの日かの、高専の制服を着た七海が頬を染めて視線を落ち着きなく動かしている姿が映る。その幼い七海が、どのようにして大人になっていったのかを、五条は知らない。けれどこの世界のどこかに、その変わっていく七海を知っている誰かがいるのだろう。つまり嫉妬か。
「僕の知らないオマエがいるんだなって思ったらモヤモヤした、みたい」
「アナタのことで知らないことは、私も色々とありますが」
「でも僕は恋人いなかったけど、オマエはいたんだろ」
「まぁ……いましたが」
七海の控えめな肯定を聞いて、五条は唇を尖らした。マグカップの水面には照明が映り込んでいるが、茶色いココアに吸収されて鈍い光に留まっている。
「オマエの恋愛遍歴とか想像するのも嫌だけど。オマエ、さびしんぼだから」
七海の表情を横目でチラリと窺えば、鳩が豆鉄砲を食ったように目を丸くしている。そんなに驚くことだろうか。もしかしたら無自覚だったのかもしれない。七海が寂しがりだなんてことは五条には自明の理だけれど、本人こそが気付いていない、というところは一層七海らしさがある。五条個人の感想だが。
「隣に誰かがいたんなら安心する」
オプションで頭を撫でてやれば、七海は首からじわじわと赤く染まってきた。その赤が頬に到達するかどうかというところで、七海は大きな両手で自身の顔を覆い隠してしまって、五条は憮然とした。絶対に、今の七海は可愛い顔をしていはずなのに。
「……熱烈な愛の告白ですね」
「でしょ? 僕もちょっと恥ずかしい」
五条が素直に暴露すれば、顔を覆う手と手の隙間から漏れる呻き声は、より情けないものとなった。