以前なら、あるいは今でも任務前後なら、傘なんてささないで人目も知らないフリで歩いていた。濡れることも気にせず、というよりは濡れることも出来ず、泰然と歩いていた。
けれど呪力の薄くなった今、他ならぬ家入が、口を酸っぱくして「術式に頼りきるな」と忠告してくるのだ。ハイハイと聞き流せていたときとは状況が違うから、五条も文句を言いながら従っていた。傘をさすのもその一環だ。
クルクルクルと、教え子にもらった傘を回す。窮屈なビニール傘に身を縮こまらせていた五条を見た彼らは、理由を尋ねることなく笑顔で傘を渡してきた。それを思い出せば少しの手間なんて無いも同然だ。言い聞かせている気もしなくもないが、五条としては、貰い物のこの傘は悪くないと思っている。
そうして歩くこと間もなく、林の切れ目に白い建物が見えてくる。五条家の息のかかった病院だ。表に出しにくい呪術関連の負傷者を引き受けるそこは、入院のための設備が充実している。斯くいう五条も、今回は見舞いのための来訪だ。
もはや顔パスできそうな案内所で手続きをして、そのまま五条は病室に向かう。しとしとと続く雨音にもそれが運んでくる匂いにも、はたまた水に濡れて緑を主張する葉にも、五条の心は動く。揺れる。こんな繊細な情緒があったなんて、五条自身も驚きだ。カサリと紙袋の中身が音を立てる。
そんなことを一番に共有したい相手には出来なくて、行き場を無くすばかりだ。そうして溜まる紙束にもまた、行き場は無い。
「芋でも焼こうかな」
到着した病室、備え付けの丸椅子に収まってから、五条は一枚の封筒を取り出す。紙袋の中は同じもの似たものが詰められて、埋め尽くされている。似たようなものが既に一つ、病室の隅に、まるで赤点のテストを隠すように置き去りにされていた。このまま放ったらかしていたら呪物になりそうだとも思う。
「なんだ、お焚き上げするのか」
「……いやお焚き上げは違うデショ」
五条が椅子に座ってすぐ、家入は静かに引き戸を開けて入ってきた。見慣れた白衣を脱いだ彼女は手ぶらで、それでも枕元に設置された機器を覗き込んでいる。もしかしたら暇を持て余しているのかもしれない。呪霊も弱体化した今、家入が高専に缶詰めになる理由はなくなったから。
さらに点滴を検分する家入をよそに、五条は持っていた封筒を袋に落として、違う一通を取り上げる。表に裏に見ても呪力の籠められていない、ただの封筒だ。術式を行使して書いたわけではないから当たり前だ。お焚き上げをしなければならない程の、そんな大層なものではないだろう。ないはずだ。いやもしかしたら蝿頭除けくらいにはなるかもしれない。
「ご利益ありそうだけど」
案外と真剣に考え始めたところで、既に興味のなさそうな家入の声が被る。点滴を見終えた家入は見舞い品の山に手を出していて、本当に、何のために滞在しているのかわからない。何もないから暇潰しをしているのかもしれないが。
「別に、捨てることないだろ」
「でも結構溜まったし……邪魔じゃない?」
背を向けたままの家入と会話を続ける。
五条の持参した紙袋は、誰もが知る銘菓を買ったときのものだ。その袋から溢れるほどとはいかないが、それでも結構な量が詰め込まれている。
「……仕舞える場所があればいいんでしょ」
ガサガサと物色していた家入が振り返る。その手には、病室の主たる患者の好みを配慮したのか、塩気のきいた煎餅の缶が一つ。ちなみに大容量版だ。
缶の本体を押し付けられて、代わりに袋を奪い取られる。家入が躊躇なくひっくり返した袋の中身は、ガサガサと缶の中に収まっていった。少し飛び出た部分を均してから、グッと、丸みを帯びた蓋を閉める。最後、余っていたらしい煎餅を蓋の上に置いて、家入は顎で見舞い品の数々を指し示した。
「箱ならいっぱいあるし、そうやって仕舞ってここに置いとけばいいでしょ」
「……え〜」
何の解決にもなっていない。容れ物がちょっと頑丈になっただけだ。
「近くにあれば起きたときにすぐ読めるだろ」
「……それはそれで恥ずかしんだけど」
家入の言葉につられて、五条はベッドに視線を移す。そこには、一向に起きる気配のない七海が今日も静かに眠っている。
眉間のシワがほどけて、固められていない前髪がサラサラと流れて、あどけなささえ感じる寝顔だ。これが七海宅のソファだとか、高専の仮眠室だとかなら、いっそ微笑ましくさえ見えるのに。
細くゆったりとした呼吸が聞こえるから、五条は何とか平静を装っていられるのだろう。けれど、いつ目覚めるか、本当に目覚めるのかもわからない状況は、ずっと続いている。
ななみと、吐息のように溢れた声は、まるで迷子の子どものように頼りなげだった。