まるでラブレターのような 6

街路樹の色づきだした頃、五条はようやく、その部屋に足を踏み入れた。
握り込んでいた合鍵は、体温が移ってじっとりと生温い。実を言えば使うのは初めてのことだ。五条のベランダと玄関の使用率は半々で、玄関から訪ねるときは必ず家主――七海に招かれていたので。
明かりのついていない部屋は静まりかえっている。七海の不在は長く続いているから当たり前だ。それでも空気が淀んでいるだとか、人から忘れ去られたような見捨てられたような状態になっていないのは、七海が多くの人に慕われているからだ。いつか七海が目覚めたときのためにと、せめて部屋の維持くらいはと、通う人たちがいるからだ。
そんな交替制の管理係に五条が抜擢されたのは、家入の提案によるものだった。主要メンバーたる補助監督は猫の手も借りたい程に忙しく、よって以前と比べて任務の少なくなった五条が行ってこいと、そういう話らしい。贅沢な猫の手もあったものだ。けれどその提案が、建前で隠した気遣いだとわかっているから、五条は渋々と了承した。そうして重たい足を自覚しながら七海の家を訪れた。
リビングに面した掃き出し窓、ピッチリと閉じられたカーテンをほんの少し開く。細い隙間からは以前と変わらない街の明かりが覗いた。あの明かりの下で今も誰かが生きているのだろう。そうやって感慨に浸ることはあっても、感動を覚えることはない。海を見たときのような心の動きがない。
落胆の混ざった息を吐いて、五条は窓から離れてキッチンに向かう。カウンターに隔てられたそこは七海の城ともいえる場所で、五条はあまり立ち入ったことがなかった。友人でも、まして恋人でもない間柄なのだから、それが適切な距離感というものかもしれない。
家主の長期不在が予想されていたから、電源も落とされた冷蔵庫の中身は空っぽだ。調味料すら引き上げられている。駆動音のないキッチンは静かなもので、余所余所しさを感じるばかりだ。七海が立っていたときの温かみは欠片も感じられない。まるであの病室にいるような気持ちになってしまう。
ぐるりと見渡したキッチンも後にして、五条は再びリビングに戻った。テレビの前に据えられたソファに腰掛ける。寝室を覗こうかとも思ったけれど、動かそうとした足は意志に反してソファに根を張ってしまった。
じっと動かずにいると、静けさに伸し掛かられているような気になる。いっそ五条の心音さえ聞こえてきそうな、そんな無音の状態だ。
「……はやく起きろよ」
ポツリとこぼれたのは初めて聞くような声だった。その声を出した張本人だというのに驚いてしまうくらい、五条悟らしくない・・・・・声だった。そうしてその声色で気付いてしまった。
さみしいのか。
相変わらず暗い室内で、五条はパッと目の前が開けたように感じた。そのくらいの衝撃だった。
七海はかわいい後輩だ。信頼できて、打てば響くような軽口が叩けて、五条を鬱陶しがっても律儀に反応してしまうような、お人好し。それだけのはずだった。五条なりにかわいがって目を掛けていても、それだけの。
なのに呪術師として戻ってきて、嬉しくて構って構われて、それだけではなくなっていたらしい。
一度思い至ってしまえば、過るのはこれまでに送って保管されている手紙の数々だ。何で無自覚のままであんなものを書けたのか、自分の気が知れない。いや無自覚だから書けたのだろうか。
徐々に上がっていく体温を自覚して、五条は堪らずにソファの上で丸まった。