右手には地平線も望める荒野が続き、左手には途切れた地面と空に溶けるような水平線が遠くにあった。聞こえる波音から察するに、左手側、地面の切れた先には崖が聳え白波打ちつける海が広がっているらしい。
上下左右、どこを見ても覚えのない風景に、七海はどうしたものかと途方に暮れる。この場所に至るまでの記憶もない。とはいえ、こんな摩訶不思議空間に閉じ込められるのは呪霊のせいと相場が決まっている。大元を叩いてしまえばどうにでもなると、らしくなく楽観的に結論づけることにした。
使い慣れた鉈が手元にないのは懸念材料だが、幸いにも、七海は身一つでも戦える。自身の術式に感謝しながら、七海は足を動かす。とりあえずはスタート地点として横棒を一本。これを目印としておけば、領域内を堂々巡りさせられたら気付けるだろう。
――そう身構えていたにも関わらず、七海はただ、前に前に進むことしか出来なかった。どれだけ進めど景色は変わらず、元凶も見つからず、目印の元へと戻ることもあらず。呪力探知に関して七海は十人並みだ。そんな目では異変を捉えられないまま、打開策もなくひたすら真っすぐに歩く。
しかし目では異変を感じられなかったが、七海の放り込まれた世界には絶えず変化が生じていた。音だ。頭上に広がる空からは、ずっと音が降ってきている。
七海の足音にも負けそうな微かな音は、どうにも人の話し声に聞こえる。老若男女いずれかの見当もつかないが、耳に残る、聞き覚えのある声色だ。一度気になってしまえば惰性で動かしていた足は止まり、七海は息を潜めて声に意識を傾ける。
内緒話のように秘そめようとしたものではない。単純な距離の問題で、七海には散り散りになった音しか聞こえないのだろう。もっと近付くことができれば、声の主の予想もついただろうに。
フーと長い溜息を落とす。薄々感じていたが手詰まりだ。サングラスを直そうとしたところで指が空振り、いつもより視界が明瞭なことに、七海は漸く気付いた。無いものだらけで隙だらけだ。
指をそのまま眉間に添え、今度は肺の中の空気を入れ替えるように息を吐く。直前の行動が思い出せないことと言い、それもこれも呪霊の術中ということだろうか。
そんな七海の落胆も諦観も我関せずというように、相変わらずちりちりと声が降る。これが雨粒だったら七海は濡れ鼠となっていただろう。
声の主は長々と喋り続けることもあれば、思わずというように一言二言を落とすこともある。明るく弾んだ声を聞けば七海も励まされる気がしたし、静かな声に耳を傾ければささくれ立つ心も凪いでいく。沈んだ声を聞いたときなんて、隣にいられないのが歯痒く思えてしまった。
不思議な声だ。いっそ中毒性を感じてしまうほど。
その言葉をどうにか聞き取ろうと、七海は視界を閉ざして耳に集中する。黒く塗り潰された視界と、依然として喜怒哀楽程度しか聞き取れない声に、七海の眉間のシワは深くなる一方だ。呪力で強化しても音としか認識できない。
苛立ちを散らすように短く息を吐き、七海は空を仰ぐ。と、曇っていたはずの空から強い光が差した。咄嗟に目を瞑る。しかし強い光に焼かれた瞼の裏は、一層と黒く塗り潰されてしまった。
その暗闇の中央、走馬灯のように、今までの記憶が映し出された。映像として見せられて、閉じ込められるまでの経緯も七海は思い出した。途端に、全身を覆うような疲労感と、急がなければという焦燥に襲われる。左半身は熱さを通り越して痛みを訴えている。
そうしてもう一つ、空から降ってくる声の正体にも気付いた。気付いてしまえば、何故わからなかったのか、七海自身も疑問に思ってしまう。嫌と言うほど聞き慣れた声なのに。
「……五条さん」
項垂れる七海の口からは、声の持ち主の名前が落ちる。今の七海の声を、顔を、彼が見たらどんな反応を寄越すだろうか。いつもの軽薄な調子で、あるいは学生のときのような悪ガキらしい態度で笑ってくれるだろうか。
七海は、五条のそんな声が聞きたかった。