湖畔を離れて 彼のこれから

五条は思い出の詰まった四阿の屋根の下にいた。目の前の湖だけに視線を向けて、背後から聞こえる草を踏みしめる音には、気付いていないふりを通している。段々と近付いていた足音は一瞬止まって、地面を擦るような音を立てる。続きの一歩は随分と拙く聞こえた。
それだけで、背後の人物に確信を持ってしまった。あてが外れれば変人扱いをされるかもしれないが、根拠のない自信だけは積み上がっている。そうして何故だか、こういうときの五条のカンが外れたことはない。
「ここ、穴場だと思ってたんだけどな」
背を向けている誰かにも届くだろう独り言にも、反応はない。ただ淡々と、一定のリズムを刻む足音が続くだけだ。自分ばかりが余裕を崩されているように思えたのが悔しくて、五条は振り返って相手の表情を確認した。少しでも動揺が見えないかと思ったが、七海の顔は前世を思い起こさせる鉄面皮で覆われている。全く面白くない。
「久しぶり」
「お久しぶりです」
会わないうちに七海の成長期は過ぎていて、その姿は呪術師として出戻りしてきた頃にそっくりだ。運命だとか宿命だとか、普段は信じていないのに否応なく感じさせられて、五条は何だか可笑しくて笑ってしまった。
ゆっくりと歩み寄る七海は、五条の座るベンチの、角を挟んで右側に回り込む。別れ際よりも広く取られた距離に七海との心の距離を感じて、五条は身勝手にも寂しさを覚えた。
「五条さんは、いつ前のことを思い出したんですか?」
ローテーブルに膝を擦りながら座った七海は、開口一番に切り込んできた。薄々察していたことだが、いつの間にやら前世の記憶をしっかりと取り戻してしまったらしい。あるいは鎌をかけているのかもしれないが。
深呼吸を一つして、五条は自身の精神をなだらかに整えた。
「今のさ、僕が何も知らなかったらデンパな奴だって思われるよ?」
「どうとでも誤魔化せますから」
「教えてないのに名前知ってるってヤバいと思うけど」
「まぁ……それも、はぐらかすことはできるでしょう」
ポンポンと交わされていく軽口の応酬は、前世の二人の日常と同じだ。これまで、前世とは全く違う人生を送ってきたはずなのに。記憶一つで過去の再現になってしまうことを、五条は少しだけ恐ろしく感じた。けれどそれ以上の懐かしさと、嬉しささえ感じてしまった。
「私は最近思い出しました」
「まぁそーだろうね。何も知らない建人は可愛かったなぁ」
五条の言葉を聞いた七海の眉間に、僅かに力が込められる。素直な反応は可愛らしくて、なのに見た目はキッチリと整えられた大人の皮を被ったままなのが不満で、五条はセットされた前髪に手を伸ばす。
律儀にワックスまで使っているらしい前髪は、固くて指通りも良くない。それでも掻き混ぜるように強引に梳かして額を隠すように流すと、髪型だけは幼い建人を思わせるものになった。おまけで七三分けにしてやれば、高専時代の七海がそのままに老けたようだった。
「僕はずっと覚えてたよ」
前世を覚えていればチグハグにも見えるその髪型と顔立ちは、あったかもしれない七海の未来を、五条に幻視させる。
「だから、前の続きを生きてるみたいだった」
もし七海が出戻りをしなければ、非術師の中に埋もれて生きていれば、あの日に命を落とさずに済んだのではないか。考えても仕方ない「たられば」は、五条が前世から持ち越してしまったものの一つだ。
いつもは奥に沈めてあるのに時々こうして浮かび上がってきては、五条に様々な感情をもたらしていく。その中には今生で感じるよりも色鮮やかなものもあって、五条の認識する前世と今生の境目を、ひどく曖昧なものにさせた。
「でも前からの知り合いは誰もいなくて、ひょっとしたら全部僕の妄想なんじゃないかって疑ってた」
それでも二つの人生を完全に混同させてしまえなかったのは、皮肉にも、五条が独りだったからだ。今生の五条の周りに、前世を知る人物が一人もいなかったからだ。
「そしたら七海見つけて、でもなーんにも覚えてなさそうだし」
だから、あの日に出会った建人は、五条の希望だった。彼が眩しく目に焼き付くように思えたのは、木漏れ日と、それを反射する髪色のせいばかりではない。
とはいえ、五条が一瞬抱いた希望は、すぐさま打ち砕かれた。あのときの落胆を思うと、覚えていないことを責めるのはお門違いだと理解していても、ついつい恨み言が漏れてしまう。
頬を膨らませてゴキゲンナナメを態度で表してはいるが、七海は何も悪くない。ただ、五条が自身の感情の整理をつけかねているだけだ。
「それは……すみません」
「別に謝ってほしいわけじゃないし」
なので謝られても困ってしまう。自分の態度が悪いせいだとは、五条とて重々承知しているのだが。それきり口を開かなくなった七海に、思ったよりも冷たく響いた自身の言葉を気にした五条は、慌てて言葉を付け足した。
「僕が勝手にウジウジしてただけだから、オマエがどうしたとかじゃないんだって、ただ」
クッと言葉を呑んで言い淀む。勢いに任せて、言わなくていいことまで口走るところだった。久しぶりの再会に、五条本人に自覚はなくとも案外と浮かれていたのかもしれない。
二人して、居心地が良いともいえない沈黙に身を浸す。場違いに長閑な鳥の囀りが響く静けさに、やがて耐えられなくなったのは、五条が先だった。
「あーやめた!」
五条が突然上げた声に余程驚いたのか、七海は身じろぐように後ずさった。ポカンと開いたままの口が、彼の驚きぶりを表している。
「……何で僕だけなんだよ!」
一度、口から溢れさせてしまえば、溜め込んだものは止めどなく濁流のような勢いで噴き出していく。五条本人でさえ、こんなにも澱が溜まっていたことには気付いてもいなかった。誰からの贔屓かなんて、何が言いたいのかは五条にだってわからない。
けれど瞬間湯沸かし器のように爆発した感情は、萎むのも一瞬だった。切り替えのために深呼吸を一つして、五条は前のめりになっていた体を背凭れに押し付ける。
「まぁ僕が勝手に拗ねただけだから七海はホント悪くないよ」
「強いて言うなら間が悪かったけど」と呟いた愚痴が、八つ当たりでしかないことは五条もわかっていた。自分の狭量さを、他ならぬ自分に見せつけられた気がして、口をとがらせた。爆発のような激高は尾を引いて、五条の心に僅かな隙を作る。
「……でも、オマエがなーんにも覚えてなくて、ちょっとだけ安心した」
ポツリと零れた言葉は、だから五条の本音だった。
「何故ですか」
「だってそうだろ。あんなの、覚えてないほうが良いに決まってる」
「それは、アナタがそうだったからですか」
「まーねぇ……」
納得していない様子の七海は、眉間のシワを深くする。それから、躊躇うように視線を泳がせてからそっと口を開いた。
「私は覚えていたかった」
七海の声が思ったよりも沈んでいて、五条は思わず目を丸くした。けれど内心の驚きを瞬時に隠して、わざとらしく小首を傾げて応える。あくまでも軽く、七海の声色には気付かなかったとでも言うように。
「物好きだねぇ」
五条は煽ったつもりだったが、声同様に沈んだ面持ちの七海が乗ってくることはなかった。
「覚えていれば、アナタは突き放さなかったでしょう」
「突き放してなんかないけど?」
「あの次の年、アナタはここに来なかったじゃないですか。約束までしたのに」
一転して強い響きで発された七海の言葉は、しかし段々と力を失うように弱まっていく。聞かせる気のないように思える最後の呟きは、しかし五条の耳には焼き付くように残った。
「……それは」
今度は五条の視線が泳ぐ。
あの時の、やらかしたと感じた五条の気持ちを、素直に言っていいものか。七海が自責の念を覚えるような、そんな勘違いに繋がってしまうのではないか。逡巡して、けれど七海が誤魔化されてくれるような性格でないことも理解しているから、五条は腹を括るしかなかった。顔を上げて、五条は七海の目を見つめる。
「これはただのカンだけど、オマエ、思い出してただろ」
五条の言葉に驚いたらしい七海が目を見張る。どこか幼くも見える表情だ。
「何故わかったんですか?」
「熱で寝てるって聞いて、それだけなら風邪とも思ったけど、オマエの目が違う気がしたから」
五条は脳裏にあの日の建人を思い浮かべる。前日別れるまでの淡い色とは違って、あの日の彼の目は色濃い熱を帯びていた。それは、触れれば火傷をしてしまいそうなほどだった。
「がっついてましたか」
「がっ!? いやオマエあんなときから、そんなさぁ……」
まさに感じていたことを言い当てられた気になって、五条は呻き声を上げるしかない。一通りの母音を呻いてから、組んだ両腕の間に顔を隠すように突っ伏した。それでも七海からの視線が逸らされることはない。
「がっつくは言い過ぎましたが、初恋なので」
「はつこい……初恋かぁ……」
「そうですよ、初恋のお兄さんと来年も会おうと約束したのにすっぽかされたんです」
「……そんな言い方すんなよぉ」
顔から火が出そうなほどに熱くなって、五条は上げようとした顔を腕の間に戻してしまった。薄々どころでなく勘付いていたが、本人から直接的に言葉にされてしまうと恥ずかしくて仕方ない。
「すっぽかしたのは悪かったよ、でも」
もごもごと、不明瞭になっているのを自覚しながらも、五条は七海に語り掛ける。そうして少しだけ、五条は言葉にすることを躊躇う。今から話す本音は五条の独り善がりで、きっと七海にとっては余計なお世話でしかない。
「……覚えてないなら、思い出さないでほしかった」
「アナタを」
「なーんて言ってもさ、もう思い出しちゃったなら仕方ないね」
何を言われるのも恐ろしくて、七海の言葉を遮るようにして、五条は笑顔を作って混ぜっ返す。言葉を遮られたのが不満なのか、七海は眉間のシワを深くしてムッとした態度をしている。このまま有耶無耶に出来るだろうか。
「なら恋人になってくれますか」
一瞬、五条は七海が何を言っているのか理解できなかった。「元」とはいえど最強なので、そんな狼狽も動揺もすぐさま隠してみせたが。
「イヤイヤイヤ『なら』じゃないでしょ、トバしすぎ。会うの二回目だよ?」
「アナタの為人は充分に理解しているつもりです。信用しているし信頼もしています、尊敬はしてませんが」
「それ引っ張り出すことなくね? 喧嘩売ってんだろ」
前から思っていたことだが、七海は五条に対してだけは遠慮がない。五条と同期の家入や、何なら後輩にあたる伊地知に対してのほうが礼儀正しい態度を取っていたくらいだ。少しのイラつきとそれを上回る懐かしさを、五条はひっそりと抱えた。
「とにかく」と、無闇に湧く感傷を振り払うように五条は語調を強くする。
「七海が知ってるのはあくまで前の僕、今の僕のことを知りもしないで恋人になりたいとか言うんじゃねーよ」
「ナンパ野郎はお呼びじゃないから」と、無愛想さを前面に押し出した態度で返しても、七海が諦める素振りはない。逆に反発心に火を付けてしまったような気さえする。
「わかりました」
七海がどんなことを口走るか、五条には何となく予想できてしまった。
「なら、アナタのことを知りたいので、お付き合いを前提にお友達から始めませんか?」
「オマエ絶対わかる気ねーだろ〜〜〜」
やはり、七海の何らかのスイッチを入れてしまったらしい。こうなった七海は普段の頑固さが何倍にもなって、彼自身が納得するまで意固地になって引き下がらない。最終的には年下ならではの甘えまで使って五条の陥落を狙ってくるから、厄介なことこの上ない。五条は頭を抱えそうになった。
「今詰めなければ、アナタはまた逃げるでしょう。形振り構っていられないんですよ」
いじらしく聞こえる言葉だ。
けれど、あの夏の間、一度も名前を呼ばれなかったという事実は五条の心に蟠りを残している。そうして未だに昇華される気配はない。
「オマエさぁ、そんな調子良いこと言ってるけど、全然思い出さなかっただろ」
周囲に与える影響を考える必要のなくなった今生において、五条の心持ちは随分と軽くなった。それと同様に口も軽くなったのか、言うつもりのないことを零してしまうことも多くなった。今の言葉がまさにそれで、五条は内心で歯噛みする。
「そうですね、けれど、アナタのことを忘れたかったわけではない」
七海の声は、真摯さと誠実さを限界まで煮詰めたような熱を孕んでいた。熱は七海の末端まで満ちているようで、その手の下で縮こまる五条の右手は炙られるように、ジワジワと体温を上げていく。実直さを訴えかける視線とは裏腹に、七海の手つきには妙な艶めかしさがあったが。
「今知った」
「はい」
「から、まだ信じられる気がしない」
キュと唇を引き結んで余計なことを口走らないようにすることが、五条の精一杯だ。そうでもしないと、ずっと撫でてくる左手に絆されてしまいそうだった。けれど、「そうですか」と呟いて視線を伏せる七海があんまりにも悄気て見えるから、精一杯の決意などすぐさま吹き飛んでしまう。
感触を確かめるように撫で続ける七海の手の下、五条はじりじりと位置をずらすように右手を動かす。動きに気付いた左手から力が抜けると、五条は右手を裏返して、遠ざかっていきそうな七海の手を握り込んで引き留めた。
「でもオマエがずっと一緒にいてくれるなら、信じられる、気がする」
ポツポツと零すたび、耳やら首やらに血が上って赤くなるのを自覚する。きっと七海からは丸見えだろう。全身が茹でられているかのように暑くて、まるでサウナにでも入っているようだった。
「います、死ぬまで、死んでからも一緒にいます」
まさに必死という表情と態度で、七海は言い募る。その心情は段々と力の強くなっていく左手からも、文字通り、痛いほどに伝わってきていた。
遂には、「どうか信じてください」と乞われてしまえば、閉ざしたままにしようとした五条の心も開いてしまうというものだ。五条も観念することにした。
「しょーがないから信じてやる。でもその代わり、やっぱ無理でしたとかなったら絶対許さないからな」
強い力で押さえ付けられた右手をそれ以上の力で押し返して、手の位置を逆転させる。自身の手で覆い隠すようにした七海の左手を、五条は右手全体で撫でさする。七海の手つきを真似るように動かせば、その左手に熱が集まってくるのがよくわかった。
「それは怖いですね。末代になっても消えなさそうな呪いだ」
「元特級術師の呪いだからな。でも心配ないんだろ?」
ツ……と、人差し指を意味ありげに撫であげれば、七海は五条の意図を正しく受け取って笑みを深めた。その表情は滅多にないほど挑発的だ。
「勿論です」
「その言葉、忘れんなよ」
七海の笑顔に、五条は口角を吊り上げて、相応に好戦的に返したつもりだった。けれど五条の表情を目にした七海は安心したように頬を緩めたから、きっと自身で思うよりも、五条は柔らかい笑顔を浮かべていたのだろう。