奇しくも、名前も全く同じ「五条悟」だったが、それよりも精神面での話だ。前世を一つも取りこぼすことなく覚えていたお陰で、おそらく、五条は子供らしさのかけらもない子供だった。
そもそも見た目からして異質なのだ。前世では呪力と六眼の影響で、しかも呪術界という何かと特殊な環境下だから珍しくもない髪色と目の色だったが、今生では違う。
純日本人の両親の間に生まれて、もちろん魔法が使えたりエスパーだったりということもないのに、前世と同じ白髪と青い目だ。両親の不和の種になってもおかしくはない。けれどおおらかで善人である五条の両親は、息子を暖かく受け入れた。その後、五条は両親以外の人間にも恵まれ、疎まれることも排斥されることもなく暮らすことができている。とても幸運なことなのだろう。
幸運だと、前世と比べるまでもなく理解しているが、それでも五条はポッカリと心に穴が空いたように空虚に日々を過ごしていた。軽々しく自死を選べば両親が悲しむだろうことは、容易に予想できる。散々よくしてくれた二人を無闇に悲しませたくないという気持ちだけで、五条はずっと生きてきた。
五条の周りには、誰もいなかったので。
優しい人にも善き人にも恵まれているが、前世の知り合いは一人もいない。前世での肉親との縁は薄すぎて、今の両親が同じかどうかはわからない。悪縁で繋がっていた相手と再び相見えるのは困りものだが、こうも知り合いに会わないとなると、もしや前世の記憶は全て五条の妄想なのではないか。段々と、五条は不安に駆られるようになっていた。
そんなとき、五条は初めて前世の知り合いを見つけた。七海だ。
両親お気に入りの別荘でいつものように過ごしていたある年の夏、見えない位置に使用人がいるのを感じながら、五条は木々の間をうろついていた。目的もなく歩いて湖に近付いていって、ふと足を止めたとき、背後で風にかき消されそうなほど小さな足音が聞こえる。次いで息を呑むような音を耳が捉えて、振り向いた先に立ち尽くしていたのが、七海だった。
キラキラとした金髪は記憶にあるよりも明るく淡い色をしていて、ポカンと丸く開いた目は頭上で日を遮る葉と同じ色をしている。頬はまろくふくふくと薔薇色に染まって、けれどそれ以外は足も腕も真っ白だった。背はやはり五条よりも低そうで華奢で、特に腕なんか、触れれば折れそうなほどに細い。全体的に小さくて細っこくて可愛くて、まるで人形のようだ。
ひと目見て、七海に記憶がないことは察せた。まず表情が違う。初対面の人間に向ける顔だった。
五条はひどい落胆に突き落とされたが、どこまでも沈み込みそうな感情はおくびにも出さずに、にっこりと左右対称の笑顔を浮かべる。途端に七海は頬を赤らめて、覚えていないだろうという推測が確固たるものとなってしまった。
けれど、文字通り七海を小さくしたような少年を邪険に扱うことは、五条には出来そうになかった。五条にも出来ることといえば、せめて「建人」と呼ぶことで、前世の七海と目の前の少年は違う存在だと自身に言い聞かせるくらいだ。そうでもしないと、逆恨みと八つ当たりから、年端も行かない少年を理不尽に傷付けてしまいそうだった。
五条の目は、今や異能を宿さないただの球体だ。なのに前と変わらず移り変わる空のように不可思議に揺らめいて、通りすがりの相手にすら褒めそやされる色をしている。だから空だとか海だとか宝石だとかの美辞麗句は、それこそ星の数ほどもらっていていっそ食傷気味なほどだ。
「……クリームソーダ」
そんな状況だから、建人のその形容は初めて聞くものだった。思わず聞き返してしまうほど驚いた、と同時に少し笑ってしまった。前世の五条家の人間が聞いたら、不敬だなんだと卒倒してしまいそうな表現だったので。
別人だと思いたいのに、こういう、ちょっとした考え方や仕草が七海を彷彿とさせる。どうにも振り払いきれない期待に、五条は頭を抱えて喚き出したいような気分になった。
「建人だけが呼んでいい名前だから忘れないでね」
けれど彼に言い聞かせる声は、自分でも驚くくらいに甘くなってしまった。
◆ ◆ ◆
翌日からの二日間は、ただ楽しいばかりだった。五条は、自分がこんなにも子供らしくいられるということを初めて知った。
七海の記憶については、努めて頭から追い出すようにしていた。考えても詮無いことであるし、考えすぎて行き詰まって建人を傷付けてしまうことを、五条は何よりも恐れていた。
何にでも興味を持って逐一五条に尋ねる建人は、好奇心あふれる仔猫のようでもあり、あとを必死に追ってくる雛鳥のようでもある。要するに、可愛らしくて仕方なかった。デレデレと顔が緩むのを抑えられなくなるほどだ。
五条は建人と遊ぶ中で初めて、一度目の記憶があることに感謝した。世間一般的とは言い難い環境に身を置いていた前世は、それでも幼い少年と比べれば、何でも知っている憧れの大人そのものと言えるだろう。彼はいつも、五条に向けて憧憬と尊敬の詰まった眼差しを向けている。そうして素直に懐かれれば、五条からの甘やかしも際限なく増していく。
巡り巡って増える様を、五条は好循環だと自身に言い聞かせておくことにした。けれど。
◆ ◆ ◆
その目を見て、五条は自身の失敗に気付いた。
◆ ◆ ◆
仕事上のトラブルで、両親が急遽帰らなければならなくなったのは事実だ。使用人がいるとはいえ一人息子を残すことに不安を感じる両親のため、一緒に帰ることにしたのも本当の話だ。そんな経緯で、本来ならあと二日は滞在できたのに約束を破る形になってしまったから、五条は彼の別荘まで挨拶に向かった。
建人が前日の夜から熱を出していると聞いて、今は落ち着いているとも聞いて、五条は心配と少しの安堵を同時に感じた。傘を持ち歩けば良かったと五条が静かに反省していると、階上から大きな物音が響く。思わず首を竦めた五条が視線だけで様子を窺っていると、すぐさまドタドタと賑やかな音が続く。らしくないが、建人の足音だろう。転がり落ちないか、五条は気が気でない。
「ソーダさん」
建人の呼び掛けに、五条は顔を上げる。声のしたほうを振り向くと、階段を無事に降りきった建人が肩で息をしながら立っていた。柔らかな髪に寝癖がついているのが微笑ましくて、思わず五条の顔も綻んだ。だけど、そんな和やかな空気は一瞬で霧散してしまった。
柔らかなライムグリーンが湛えられていた彼の目に、懐かしいオリーブグリーンが滲んでいる。思わず「ななみ」と口走ってしまいそうなほど、その目は前世の七海と同じだった。は、とあえぐように息を吐いて、けれど五条は瞬時に持ち直した。この程度の予想外の出来事は、前世では日常茶飯事だったはずだ。
「今起きたの?」
ゆっくりと、動揺を隠すように笑顔を形作って、五条は彼に問い掛ける。声は震えていないだろうか。呼吸は整えられているだろうか。前世の七海ならいざ知らず、今の彼が気付きそうにもないことすら、五条には不安に思えてしまった。
ソファで隣に腰掛けてきた彼に対して、五条は反射的に、体を傾けて反対側に逃げを打った。二人の距離は拳一個分ほどもある。
「帰っちゃうんですか」
眉尻をこれ以上なく下げた表情で尋ねられて、五条は言葉に詰まった。やむを得ない事情によるものだが、やはり罪悪感は拭えない。
「昨日、また、て言ったのに」
「急に予定が変わっちゃったから。ごめんね」
言葉では食い下がらない彼の、その不満を露わにしている唇に触れて、五条は喉から腹にかけて力を込めた。今から口にしようとしているのは、守る気のない約束だ。不可抗力で破ってしまった昨日の約束とは違う。
「来年の夏休み、また遊ぼ」
彼から離そうとした指を引き留められて両手で包まれて、五条の肩が僅かに跳ねた。喉はカラカラに乾いている。動揺が指先から伝わってしまいそうだった。
「絶対ですよ」
「……うん、絶対」
嘘を塗り重ねている今の自分は、一体どんな表情をしているのだろうか。
それ以降、五条が彼と再会することはなかった。