湖畔にて X年後

七海は懐かしの別荘を見上げた。
あの頃の高揚を再び感じるには、十数年という時間は予想よりも長かったらしい。丁度良い高さとなった玄関扉のハンドルに、高揚ではなく言葉にし難い感傷を覚えた。
別荘の中は記憶と違わず広々とした造りをしているが、成長した七海にとっては感動を覚えるほどのものではない。頭上の遥か遠くに見えた天窓は背伸びをすれば触れられるし、どれだけ転がっても落ちなかったベッドも、寝転がれば簡単に端に手が届いてしまった。
しみじみと過ぎ去った時間を感じながら、七海は懐古するように別荘の中を歩き回る。そうしていると、あの頃の記憶がつい昨日のことのように鮮明に蘇ってきて、七海の感傷は増すばかりだ。居た堪れなくなって、散々歩き回った別荘から足早に抜け出した。
玄関デッキを降りて数歩も歩けば、ソーダと初めて会った場所が視界に入る。体も歩幅も小さかったあの頃は大冒険をしているつもりだったが、現実には、別荘から目と鼻の先の距離にあった。
かつて彼が立っていた場所に目を凝らしても、その特徴的な色の淡い姿を見つけられはしない。風が葉を擦る音が時折鳴っては、それに合わせて陽炎のように木漏れ日が揺れている。彼に会いたいのか会いたくないのか、七海は自身の気持ちがわからなくなっていた。
七海が前世ともいえる記憶を思い出したのは、割と最近のことだ。思い出してからは一年と経っていなくて、その時の衝撃といえば、まるで刻みつけられたかのように忘れられないものとなっている。
それでもどうにか動揺を抑え込もうとして、けれど上手く昇華することも出来ずに、七海は逃げるように仕事に打ち込んでいた。鬼気迫る様子を心配した両親に追いやられた結果が、この懐かしい別荘への再訪だ。
嵐の只中というよりは熱に浮かされているように現実味の感じられない中、思い返してみれば、七海の周りには前世からの因縁を感じる相手が多くいた。
小学校の高学年に上がる年、隣県から転校してきたのは灰原だった。父方の再従兄弟には猪野がいたし、中学生となって初めて出来た後輩には伊地知もいた。県内有数の進学校に入学したら、灰原と揃って夏油と家入に歓迎されて、担任は夜蛾だった。その他にも、両手の指では到底足りない人数に出会ってきた。
けれど再会の最初の一人は、ソーダと名乗る五条だった。記憶のない幼い七海は何も知らず、ただ年上の友達として慕っていた。もしかしたら初恋だったのかもしれない。
五条と過ごしたのはあの夏の一度きりだ。翌年は、時期が合わなかったのか避けられてしまったのか、別荘に滞在しても姿を見ることはなかった。さらに翌年も再会は叶わず、七海はひどく落ち込んでいた。最初の夏から三年目には灰原が転校してきて、七海の関心は吸い寄せられるように灰原に向かって、夏休みになっても別荘を訪れることはなかった。
もし記憶があったなら、両親から無理にでも連絡先を聞き出していたかもしれない。記憶を思い出したときにその手を考えないではなかったが、どう言い繕っても不審がられる気がして、七海は行動に移せなかった。
五条が帰ってしまうからと挨拶に来た日、その前の晩に見た夢は、恐らく前世の記憶の示唆だった。それに気付いて五条に声を掛けることが出来ていれば、何か変わっていたのだろうか。全ては仮定の話に過ぎないが、七海の裡には後悔ばかりが積み重なっている。
グルグルと空転する思考回路を抱えながら、七海の足は動き始めた。方向転換して向かった先は、五条に連れて行ってもらった「キレーな景色」の見える場所だ。あの時は拙い嘘もバレていないと信じ込んでいたが、思えば、七海に気付かれないように大人はあとを尾けていたのだろう。雨に濡れて帰った七海に対して、両親は慌てた様子もなかった。
四阿の影が見えたところで、七海の足は縫い付けられたように止まる。呼吸までも呑み込んで止めてしまいそうな衝撃を感じて、止まった足は震えたように後ずさった。
そこには五条がいた。
顔も見ていないのに断言するなど可笑しな話だが、七海が、その姿を見間違えられるはずもない。今の人生では初めて見る後ろ姿のはずなのに、泣きたくなるような懐かしさを感じていた。意を決して、七海はぎこちなくも一歩を踏み出す。
「ここ、穴場だと思ってたんだけどな」
唐突な、話し掛けているような声量の独り言に、七海の肩が跳ねる。五条の元へ進む足を止めなかったのは、ただの意地だ。
「久しぶり」
「お久しぶりです」
「よく覚えてたね」と笑う五条は、近寄る七海に対して明確な拒絶を見せない。その様子を許容されていると解釈した七海は、五条から見て右側、L字のベンチで直角になる位置に陣取ることにした。
背の低いテーブルに手間取りながら移動する間も、五条はだんまりを決め込んでいたが立ち去ることはなかった。それでも距離を詰め切ることは出来なくて、七海と五条の間にはひと一人分以上の隙間が開く。隣り合って座るほどの度胸を、七海は持ち合わせていなかったので。
「五条さんは、いつ前のことを思い出したんですか?」
七海が問い掛けると、瞬きほどの沈黙の後、五条は長く細く息を吐いた。自身の癖が移ったように感じられて、七海は面映ゆい気持ちになる。
「今のさ、僕が何も知らなかったらデンパな奴だって思われるよ?」
「どうとでも誤魔化せますから」
「教えてないのに名前知ってるってヤバいと思うけど」
「まぁ……それも、はぐらかすことはできるでしょう」
実際、七海と五条の両親には顔見知り程度の縁があった。
幼い頃は何も知らなかったが、七海の泊まった別荘のある辺りは、所謂上流階級の所有する別荘の固まっているエリアだ。必然的に知り合いが多くなり、何処の家の誰なのか、名前を聞けばお互いに把握できるようになっている。それを知ったのもつい最近のことだが。
「私は最近思い出しました」
「ま、そーだろうね」
「何も知らない建人は可愛かったなぁ」などと嘯きながら、五条は七海に右手を伸ばす。前髪をグシャグシャと掻き交ぜるように梳かして下ろせば、成程、当時の面影を感じる髪型になるだろう。セットした髪を乱す手を、七海は鬱陶しく思いながらも好きなようにさせた。
「僕はずっと覚えてたよ。だから前の続きを生きてるみたいだった」
前世よりも重責を背負っていない、仕事に忙殺もされていないだろう五条は、けれど前世よりも余程疲れ果てているように見えた。あるいは重石となるものを失って、宙ぶらりんな状態に思える。全ては七海の主観だが。
五条は湖に視線を移す。はるか遠くを眺める五条の目はぼんやりとしていて、何をその視界に捉えているのかはわからなかった。もしかすると「前」に思いを馳せているのかもしれない。
「でも前からの知り合いは誰もいなくて、ひょっとしたら全部僕の妄想なんじゃないかって疑ってた」
五条は軽い調子で語るが、その不安を想像すれば返す言葉にすら詰まった。七海が全てを思い出したのは遅いほうで、思い出したときには、既に周りにはかつての知り合いがいた。お互いに確認し合ったわけではないが、そのうちの何人かは、初対面の反応から前世を覚えている可能性が高い。七海は運が良かったのだろう。
「そしたら七海見つけて、でもなーんにも覚えてなさそうだし」
五条がわざとらしく頬を膨らませた。これは前世の頃からの「不機嫌です」アピールで、実態は七海への甘えだとか、はたまた何かを諦めるための感情の整理だとか、理由の温度差が大きい仕草だ。今回は後者だろうか。
「それは……すみません」
「別に謝ってほしいわけじゃないし」
素気なく切り捨てられれば、七海にそれ以上言えることはない。先程までとは質の違う沈黙を湛えた七海に、五条は慌てたように付け足した。
「僕が勝手にウジウジしてただけだから、オマエがどうしたとかじゃないんだって、ただ……」
何かを言い淀むように、五条の言葉は尻すぼみになり音にならずに消えていく。そうして五条も黙ってしまえば、二人の間には微かな葉擦れや遠くの鳥の囀りが流れるだけだ。居心地の悪さを感じるような静寂に、先に耐え切れなくなったのは五条のほうだった。
「あーやめた!」
「は?」
キッと音がしそうな勢いで、五条は七海を振り向いた。その唐突な変わりようと剣幕に気圧されて、七海は僅かに後ずさる。ベンチの背凭れが間近にあったせいで、ほんの少し、肩を引いただけになったが。
「何で僕だけなんだよ! 誰もいないし、七海は覚えてないし、なのに七海の周りばっか集まるって贔屓かよ!!」
こんなに感情を顕にする五条を、七海は初めて見た。ソーダはいつも鷹揚に笑うばかりだった。前世の五条は、それに比べたら感情豊かで沸点も低かったが、冷静さを欠いた様子を見せることはなかった。胸の裡が荒れ狂っていても、むしろひどく荒れるほど、表面上は冷ややかに鎮まるタイプに思えた。
予想し得なかった五条の激昂に、七海は呆気にとられて思考までも固まってしまう。お陰で「誰の贔屓ですか」なんてズレたツッコミは、言葉にならずに喉の奥に押し込められた。けれど、前世から通算して長く深い付き合いの五条の本音に触れられたことに、場違いな感動を覚えてしまった。
七海の上の空の状態に気付いたのか、五条は荒れる感情を詰め込んだような溜息を吐く。激情を表すように前のめりになっていた上体を、自棄になったとでも言うように背凭れに預けた。両腕も投げ出して、まさに踏ん反り返るという言葉を体現した態度だ。
「て、まー僕が勝手に拗ねただけだから七海はホント悪くないよ。強いて言うなら間が悪かったけど」
ケッと口をひん曲げて悪ぶる五条は、本人が申告するほど機嫌を損ねているようには見えなかった。それが前世の五条の照れ隠しと同じ態度だと気付いてしまえば、途端に、前世と目の前の五条が地続きになっているという実感が湧いてくる。しかも可愛らしく思えてしまうのだから、現金なものだ。
「でも、オマエがなーんにも覚えてなくて、ちょっとだけ安心した」
「……何故ですか」
「だってそうだろ。あんなの、覚えてないほうが良いに決まってる」
「それは、アナタがそうだったからですか」
「まーねぇ……」
五条は語尾を曖昧に濁す。その胸に去来する感情は、良いものばかりではないのだろう。これ以上は言いたくないと、その沈黙をもって語っているようだった。
「……私は覚えていたかった」
「そーなの? 物好きだねぇ」
首を傾げるその仕草は、大袈裟で芝居がかって見えた。飄々とした態度を取り戻しつつあるのがわかる。五条の胸の裡に七海の本音を突き刺すには、辛うじて隙のある今しかないのだろう。
「覚えていれば、アナタは突き放さなかったでしょう」
「突き放してなんかないけど?」
「あの次の年、アナタはここに来なかったじゃないですか」
「約束までしたのに」と呟いた声には、責めるような色が混じってしまった。滞在中、目一杯の時間を使って五条を探していたことまで思い出して、七海の気持ちは沈んでいく。この感情を糧にして、蠅頭くらいなら生じるだろうか。
「それは……」と時間を稼ぐように呟いたきり、五条は視線を泳がせた。単純に言葉が見つからないのか、言葉にすることを躊躇しているのか、その口は空気を噛むように開閉するだけだ。グリ、と左の蟀谷を揉むように指で押して瞑目して、俯き気味になっていた視線を七海に据えた。
「これはただのカンだけど、オマエ、思い出してただろ」
「……何故わかったんですか?」
「熱で寝てるって聞いて、それだけなら風邪とも思ったけど、オマエの目が違う気がしたから」
「がっついてましたか」
「がっ!? いやオマエあんなときから、そんなさぁ……」
えーだとかうーだとか、意味をなさない呻きを一頻り上げてから、五条は脱力したように突っ伏した。両腕で囲った隙間に顔を隠しているが、その真白い髪は赤く染まった耳を隠せていない。
「がっつくは言い過ぎましたが、初恋なので」
「はつこい……初恋かぁ……」
「そうですよ、初恋のお兄さんと来年も会おうと約束したのにすっぽかされたんです」
「……そんな言い方すんなよぉ」
べしゃりと、浮上しかけていた五条の頭は再び沈んだ。彼の恥じらいのポイントは、どうやら前とそう変わりないらしい。「すっぽかしたのは悪かったよ」と、伏せた顔の下からくぐもった声が聞こえて、すかさず「でも」と五条は言葉を繋げる。
「覚えてないなら、思い出さないでほしかった」
「アナタを」
思わずこぼれた呟きは、五条がガバリと勢い良く起き上がったことで七海の喉奥に消えてしまった。その続きは七海自身にも捉えられていない。
「なーんて言ってもさ、もう思い出しちゃったなら仕方ないね」
顔をくしゃくしゃにした笑顔は、無理をしているようにも、全てを吹っ切れたかのようにも見えた。あるいは、見る側の心情をそのまま映し出しているようだった。
「なら恋人になってくれますか」
「イヤイヤイヤ『なら』じゃないでしょ、トバしすぎ。会うの二回目だよ?」
「アナタの為人は充分に理解しているつもりです。信用しているし信頼もしています、尊敬はしてませんが」
「それ引っ張り出すことなくね? 喧嘩売ってんだろ」
段々とぶっきら棒で突慳貪になっていく口調に、七海は前の五条の態度を思い出して笑いが滲む。教え子に対しては柔らかな口調を心掛けていた五条だが、夜蛾や家入など、高専時代を知る相手の前では荒い口調に戻ることも多かった。その態度こそ甘えの表れであり気を許している証拠だと、五条と親しい人間はよくよく理解していた。
「とにかく! 七海が知ってるのはあくまで前の僕、今の僕のことを知りもしないで恋人になりたいとか言うんじゃねーよ」
「ナンパ野郎はお呼びじゃないから」とけんもほろろな態度を取られて、それでも七海に諦めるという選択肢はない。五条を相手に揺さぶりをかけて本音を引き出す作業が、七海としては前世からの習い性となってしまっているので。
「わかりました。なら、アナタのことを知りたいので、お付き合いを前提にお友達から始めませんか?」
「オマエ絶対わかる気ねーだろ〜〜〜」
喚く五条を視線だけで捉えながら、懐かしさを感じる会話のテンポに、七海の表情は緩んでいく。ポンポンと飛び交う他愛もない言葉でのやり取りを、七海は割と気に入っていた。
「今詰めなければ、アナタはまた逃げるでしょう。形振り構っていられないんですよ」
七海の言葉に、五条はピクリと片眉を上げる。「逃げる」という表現で気分を害するだろうことは、七海も予想した上での発言だ。
「オマエさぁ、そんな調子良いこと言ってるけど、全然思い出さなかっただろ」
あぁ、と七海は気付いた。これが、五条の渋る原因だ。
「思い出さないでほしかった」というのは本心だろうが、「思い出してほしかった」というのもまた、五条の本音なのだろう。あるいは、自分と同じく覚えているだろうという期待が転じて、裏切られたような寂しさを感じたのかもしれない。
「そうですね、けれど、アナタのことを忘れたかったわけではない」
七海の本心だと少しでも伝わってほしくて、テーブルの上に投げ出されたままの五条の右手に手を重ねる。親指の腹で掠めるように小指を撫でると、七海の手の下にある右手全体が僅かに震えた。
「今知った」
「はい」
「から、まだ信じられる気がしない」
「……そうですか」
難敵だ。相手が五条でなければ、七海はとうに投げ出していただろう。けれど他ならぬ五条であるから投げ出せず、どうにか以前の関係に近付けるように口説き落とすしかない。諦めるつもりは、七海には毛頭ないので。
次の手管を考える間も撫で擦っていた七海の左手の下で、五条の右手がモゾモゾと藻掻くように動く。抜け出すためではない動きに、七海は真意を測れないまま、左手からそっと力を抜いた。くるりと翻った五条の右手は、お返しとばかりに、七海の指の間に指を滑り込ませて緩く握ってくる。ピッタリとくっついた手のひらからは、記憶にあるよりも高い体温が伝わってきた。
「でもオマエがずっと一緒にいてくれるなら、信じられる、気がする」
一向に交わらない視線の先、五条の耳から項から、瞬く間に赤く染まっていく。茹だったかのような熱が、指先からじわじわと七海に移ってきた。ゴクリと生唾を飲む音がやけに大きく頭に響く。
「います、死ぬまで、死んでからも一緒にいます。だから、どうか信じてください」
押し潰すように手を強く握り込むと、五条が小さく噴き出した。五条の噛み殺せていない笑い声を聞いた七海は、自身の態度を振り返って頬に血が上るのを感じた。
「しょーがないから信じてやる。でもその代わり、やっぱ無理でしたとかなったら絶対許さないからな」
グッと五条の右手に力が入り、突っ張るようにして七海の拘束から逃れる。五条は七海の手を覆い隠すように手を広げて、指から手のひらから、右手全部で七海の手を撫でた。肌に触れるか触れないかの近さで動く五条の指に、七海はぞわりと寒気にも似た高揚を覚える。
「それは怖いですね。末代になっても消えなさそうな呪いだ」
「元特級術師の呪いだからな。でも心配ないんだろ?」
今度は人差し指で七海の人差し指を擦ってくる五条に、七海は笑みを深くして応えた。
「勿論です」
「その言葉、忘れんなよ」
ふ、と息を吐いた五条の表情が心底からの安堵に染まっているのを見て、七海の胸中に歓喜が広がる。前では見られなかったその笑顔に、七海は今度こそ、五条の心を完全に手に入れたのだと確信した。