静かに開いた扉から顔を覗かせたのは、母だった。建人の様子を見に来たということは、もう朝食の時間は過ぎたのだろうか。
「建人、起きてる?」
「うん」
建人の顔色を確認して額に手をあてて体温を測って、そこでようやく安心したように母は頷いた。母の表情を見て、外遊びの許可がもらえそうな様子に建人も安心した。今日はどこで遊ぼうかと期待に胸を膨らましていると、急に、母の表情が暗くなった。その変わり様に嫌な予感がして、建人は僅かに身を固くする。
「そうだくん、今日帰ってしまうそうなの」
「え」
「それで挨拶に来てくれたんだけど、会いたい?」
「あいたい!」
ベッドから飛び降りた建人は、倒けつ転びつ足を縺れさせながら階段を降りて、リビングに到達した。階段を転がり落ちなかったのは、運が良かったとしか言いようがない。
寝起きのパジャマ姿ということも意識の外に放り出し、息を切らしながら建人は顔を上げた。広いリビングを見渡すまでもなく、大きくどっしりとしたソファに、ソーダは所在なさげにちょこんと座っていた。彼の目の前のローテーブルに置かれた紅茶は少しも減っていなくて、両手は行儀よく膝の上に収まっている。建人には、彼が緊張しているように見えた。
「ソーダさん」
建人の声に、ソーダはパァッと顔を明るくさせて振り向いた。そうして建人の格好を上から下まで眺めて「今起きたの?」と、クスリと笑いながら声を掛けてくる。そこでようやく、建人は自分が寝起きの姿を晒していることを思い出した。顔に熱が上がるのを自覚する。
熱くなった頬を誤魔化すようにゴシゴシと擦りながら、建人はソーダの隣に座った。目測で拳半個分だった二人の距離は、建人の座った位置と反対側にソーダが体を傾けたから、拳一個分ほどに増えてしまっている。避けられているように思えた。昨日よりも一昨日よりも、最初の日よりも遠ざかった距離に、建人は知らずショックを受ける。
「帰っちゃうんですか」
「うん」
「昨日、また、て言ったのに」
「急に予定が変わっちゃったから」
「ごめんね」と宥められては、それ以上食い下がるのも駄々をこねているようで、建人は躊躇いを覚える。その躊躇いごと、言葉にはならなかったが口元には表れていたようで、ソーダの指が唇にそっと触れた。触れていたのは一瞬で、掠めるように移動して、耳の下を擽るようにしてから離れていく。その指先は氷のように冷たかった。
「来年の夏休み、また遊ぼ?」
彼の指先はいつも建人より低い体温でひんやりとしていた、けれど、今の彼の指先はひんやりどころではなかった。何か怖いことでもあるのだろうか。
どうにか自分の体温を分けたくて、建人は離れていった指を引き留めるように両手で握り込む。ソーダの肩がピクリと揺れた気がした。
「絶対ですよ」
「うん……絶対」
それ以降、ソーダと再会することは叶わなかった。