母にも父にも、建人の嘘がバレた様子はない。慣れない嘘に落ち着かない気分になりながらも、建人は二人をつぶさに観察していた。焦りから不審がられないように昨日よりもゆっくりと出掛ける準備をして、建人は玄関に立つ。
「行ってきます」
建人は「行ってらっしゃい」という母の見送りの言葉を聞き届けてから、玄関の扉をくぐった。デッキを降りて、建人は別荘を振り返る。父も母も出てくる様子はなく、ようやく安心した彼の足は、強く地面を蹴って走り出した。
走り始めていくらもしないうちに、目指す先に人影が見える。もっと速く走りたいのに建人の足は言うことを聞かなくて、逆に足がもつれて転びそうになってしまった。ゼェゼェと荒い息のままにソーダに駆け寄ると、ケラケラと笑って出迎えられた。
「そんなに焦んなくてよかったのに」
汗だくになった建人の額を、ソーダがハンカチで拭う。建人が自分で拭くから、と彼の手から逃れようとしても、ソーダの手もハンカチも建人を離すことはない。汗と体温が落ち着く頃には建人もすっかりと諦めてしまって、無抵抗に彼の手を受け入れていた。
「今日はちょっと歩くから、キツくなったらすぐに言うんだよ」
「はい!」
と、建人の左手を、ソーダの右手が掬い上げた。お互いの指と指を絡ませて手をグッと密着させたその繋ぎ方を、「恋人繋ぎ」と呼ぶことに思い至った建人の体温は、走った直後よりも上がってしまった。
手のひらに心臓が移ったような、全身のあらゆる神経が指先に集まってしまったような気がして、建人の口からは感嘆符さえも出てこない。ただハクハクと開閉しては、空気を漏らすのみだ。
「じゃ、行こっか」
「うん……」
さっきの返事よりも随分と頼りない声で、それでも建人は、返事をできたことだけでも奇跡のようだと思ってしまった。そう思ってしまうほど、建人の脳内も心の中も、シッチャカメッチャカに散らかっていた。
風は吹いていて日差しは木で遮られているけれど、ずっと歩いていると、少しばかり汗が滲んでくる。お喋りを続けながら歩く建人は少しも気にならなかったが、息が上がるごとに、目敏く気付いたソーダは休憩を挟んだ。じわじわとしか進まない道のりに、比例するように、不安もじわじわと広がってきた。
「ソーダさん、あの、大丈夫ですか?」
「なにがぁ?」
「こんな、ゆっくり歩いてて……」
「ダイジョーブ! もうすぐ着くから!」
きゅと繋いだ手をさらに密着させるように力を込められて、建人の思考は容易く逸らされる。
「ここ!」
ビッと腕を伸ばして指差す先には、四阿があった。車道から分かれた遊歩道の先、湖の際の木々の間に、ぽつんと佇んでいる。四角い台座の上に四角いテーブルと、テーブルに沿うようにL字のベンチが配置された簡易的な休憩所は、人目から隠れるようにひっそりと立っていた。何だか秘密基地のようで、俄然、建人の心は浮き立った。
「あんまり人が来ないみたいでさ、穴場なんだよ」
ソーダの足取りに迷いはなく、通い慣れていることが窺える。建人は置いて行かれないように、小走りになってその背中を追った。
「ほら」
湖を挟んで真正面に、日本最高峰の山の、雄大な姿があった。木々の間に聳える山は、遠目にあるはずなのに間近で見上げているような存在感がある。圧倒されそうなほどだった。
「鏡みたいに反射してるわけじゃないけど、ドーンて迫ってくる感じが良いでしょ」
「はい、すごいです……」
「もっとあっちも行けるんだよ」とはしゃぐソーダに手を引かれて、建人は四阿を超えて湖に近寄る。湖のふちには柵が巡らしてあって、そこに手を付けば湖を覗き込めるほどに近付けた。湖面は穏やかに凪いでいて、遠く山の麓には逆さの三角形が影を落としている。
「湖まで入るように写真撮ったらどうかな」
ソーダは腕を上下いっぱいに伸ばして、建人を振り向く。彼の提案通りの写真を撮れるように、建人はカメラを縦にして構えた。天を衝くように伸びる山とその足元の湖に映る逆さになった山を捉えた写真は、素人にしては良い出来に見える。
「良いの撮れたね」
グイと、建人の斜め後ろから、身を乗り出すようにしてソーダがカメラを覗き込む。触れ合いそうなほど近付いた彼の肌に、二人の間で逃げ場のなくなった熱に、建人の心臓は一際高く鳴った。
「あっちからも撮ってみようよ」
「……はい」
離れていく体温を名残惜しく思いながら、建人は走っていく後ろ姿を追った。
建人は色々な場所の写真を撮った。山の麓の木々、光の反射する湖面、湖面に落ちた山の影だけを撮ることもあった。
写真を撮った分だけ、カメラには違う風景が写し出されることに、建人は夢中になった。時間を忘れてカメラを構えて、既に一回目のアラームは鳴り終わっているというのに、時間を確認する素振りはない。
「けーんと、時間は大丈夫?」
「あ、えっと……まだ大丈夫です」
「それは良かった。でも、少ししたら帰ろうね」
「……何でですか」
しょんぼりと、お散歩の終わりを告げられた犬のような雰囲気で、建人は問い返す。その顔にはありありと「まだ帰りたくない」と書いてあったのだろう。建人のそんな表情を見て、ソーダは眉尻を下げながら腕を空に伸ばした。
「あそこの黒い雲、きっと雨雲だから、少ししたら雨が降ってくるよ」
「傘もカッパもないでしょ?」とソーダに尋ねられて、建人は渋々と頷いた。真夏とはいえ標高の高い湖畔は涼しくて、雨に降られたら二人揃って風邪を引いてしまうかもしれない。建人としてはまだまだ遊び足りないが、自分の我儘でソーダまで風邪を引かせるわけにはいかなかった。
「……わかりました」
それでも俯きがちな建人の膨らんだ頬を、ソーダは指でプスリと突ついた。彼の指の柔らかな感触とともに、建人の頬に詰められていた空気が抜ける。それがあんまりにも間が抜けた音だったから、建人は少しだけ恥ずかしい気持ちになってしまった。
「また来れば良いから」
俯いた顔を持ち上げるように頬をグリグリと撫でられて、力任せに見えて優しい感触に、自然と建人の目が細められる。同時に沈んでいた気持ちまで掬い上げられて、建人は自分の単純さを否応なく自覚した。そのとき。
――ポツ、と音がした。
ポツがポツポツになってザーザーに増えるまで、ほんの瞬きほどの間だった。「本当に降ってきた」と雨雲に覆われた空を見上げる建人の腕を引っ張って、ソーダが走り出す。最初に見た四阿は目と鼻の先にあって、二人は慌てて駆け込んだ。
「あっちは晴れてるから、すぐに止むと思う。そしたら帰ろうね」
「あっち」とソーダが指差す先には雲の切れ間があって、夏の日差しが線になって降り注いでいる。あの晴れ間が近付いてくるなら、今は土砂降りの雨も確かにすぐ止むだろう。
顔を濡らす雨粒を腕で拭っていると、柔らかなハンカチを押し当てられた。建人の顔を拭おうとするハンカチを、建人はその腕ごと押し返す。ソーダの顔は、髪から滴る雨粒で未だに濡れていた。
「自分で拭けます」
「ホントに?」
疑いの眼差しを向けてくるソーダに対して、建人は自分のハンカチを掲げてみせる。少し湿気ているが濡れてはいない水色のハンカチを見て、一応は納得したらしく、ソーダは髪から垂れる水滴を拭い始めた。建人もそれに倣って、雨に濡れた前髪をグシャグシャにかき回して水分を飛ばしていく。
程なくして、雨音は弱まった。間遠になった雫の跳ねる音を聞きながら、建人はそろりと四阿の屋根から顔を出して空模様を窺う。どこから雨粒が落ちてきているのかわからない程、頭上に広がる空は晴れていた。
「雨、止んだね」
「帰ろうか」と促されるも、建人はどうしても素直に頷くことができない。頷いて手を引かれて歩いていけば、ソーダと遊べる今日は終わってしまうから。けれど一回目のアラームも鳴って、なのににわか雨に足止めされて、もう帰らなければいけないことは建人も理解している。
服の裾を両手で握り込んで俯く建人を、彼は急かしたりしなかった。ただじっと見つめるだけの視線を感じて、その沈黙に耐えきれなくなって、建人は渋々と頷いた。
◆ ◆ ◆
その夜、建人は熱を出した。
少しだけとはいえ雨に濡れて、その後すぐに温まらなかったことが原因だろうか。上手く纏まらない思考の片隅で、次は荷物になっても傘を持っていこうと決意した。
寒気もなく、ただ熱に頭が浮かされる最中、建人は夢を見る。
ぼんやりと、どこもかしこも滲んでいるような風景の中、切り取ったように真白い頭の男が立っていた。彼だと確信して、何故だかどうしても振り向いてほしくて、その名を呼ぶ。いや呼ぼうとした。
けれど建人の口からこぼれ落ちたのは、二人だけの秘密のあだ名ではなく――。