アップルパイとホットミルク

今日のデザートはアップルパイだった、らしい。対面を果たせなかった焼き目も美しいパイ生地とくたくたになったリンゴを思って、五条は涙を呑んだ。
定時間際に持ち込まれる案件なんて、大概は厄介なものだ。その厄介な案件に同僚共々巻き込まれ、五条は残業から逃れられなかった。災難だ。もっと災難なのは、普段はべたべたに五条を甘やかす癖に五条の健康には人一倍厳しい七海に、デザートをオアズケされたことだ。
せめても気分を上げようと、今日のデザートを聞いた五条に対する『今日はやめておきましょう』という一文。その簡潔な文章を理解するのに、五条はいつもの倍の時間を要した。それから『ケチ』『オニ』『アクマ』と小学生のような悪態を並べたてても七海の鉄の意志は変わらず、五条はしょんぼりと帰途についた。
「ただいまぁ」
「おかえりなさい」
「お疲れ様です」と労ってくれる七海に頬が緩む。けれどキッチンからふわりとリンゴとバターの甘い香りが漂って、アップルパイをオアズケされた事実も思い出す。五条の顔がキュッと真ん中に寄った。その表情を見て眉尻を下げる七海を、五条は恨めしげに見遣る。
「アップルパイは逃げませんよ」
「……わかんないだろ。足生えるかもしれないし、アップルパイだけ食べてく妖怪がいるかもしれないし」
「アップルパイだけですか」
「アップルパイだけだよ」
ぐずぐずと益体もない話をしながら、コートを脱いでカバンを片付けた。動作が荒っぽくなってしまったことを反省しつつリビングに戻れば、湯気の立つマグカップを携えた七海に出迎えられる。
「……七海ってさあ、僕に甘いよね」
「それはお互い様ですね」
たっぷりの蜂蜜と牛乳と、ほんの少しのスパイスが利いたホットミルクは、五条のささくれた心を優しく包み込むようだった。